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旧blogから、映画・演劇等の鑑賞記録を再公開 〔→目次

魂の探索、高揚する肉体

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120619ファウスト

 アレクサンドル・ソクーロフ監督の『ファウスト』を観た。ゲーテの『ファウスト』を下敷きにしながら、自由な翻案が施されている。銀座のシネスイッチにて上映。

 死体を解剖し、魂の在り処を探ろうとするファウスト。暗闇にうすらぼんやりと浮かび上がる肉色の臓物らしきものの場面から映画は始まる。肉の過剰と魂の不在。それがこの映画の基調をなしている。
 死体解剖や肉体治療の場面のなかで、食べるという行為が描かれる。乱雑に、薄汚く、ときに手づかみで。食欲の源である肉体というものの汚らわしくて猥雑な生命感を際立たせるかのように。

 石造りの家に、崖の岩肌の目立つ町並み。道を行く葬列の黒装束の人々。無彩色の暗鬱な色調が画面の中心を占めている。それゆえに、たとえば地下の巨大な洗い場で洗濯をする女たちの白ずくめの装いがひときわ鮮やかに感じられ、ファウストが見初める少女マルガレーテも、そのまばゆい白さのなかに登場する。この場面では、原作の悪魔メフィストフェレスにあたる高利貸マウリツィウスが、肉粘土をこね合わせたようなグロテスクな裸体をさらして水浴びするが、下腹部がつるりとしている代わりに尻のうえに小さな性器のようなしっぽ(あるいは、しっぽのような性器)が生えている。食欲と並んで性欲の源でもあるはずの肉体が、高利貸の職業的金銭欲によって奇妙にねじ曲げられてしまったようでもある。

 ファウストは、酒場での乱痴気騒ぎのなかで、誤ってマルガレーテの兄を刺殺してしまう。そのことを伏せて、償いの意識を持ちながら、マルガレーテと近しくなるファウスト。だが、真相をマルガレーテに密告する者がある。
 マルガレーテがファウストの部屋へやってくる。訪問の目的は、兄を刺殺した犯人はあなたではないのか、と問い質すためだった。しかし彼女はなかなか用件を切り出せない。身にまとったかさばるスカートをわずらわしげに振り回すマルガレーテの無邪気そうでいながら誘惑的な態度。ベッドのうえに座ってファウストを見つめ、ファウストもまた彼女を見つめる。何も起こっていないのに何かが起こった以上の官能を漂わせる時間が続く。ついに彼女が用件を切り出し、ファウストは事実を認める。

 事実の露見に憔悴しつつ、ファウストは、マルガレーテと一夜を過ごしたいという望みをマウリツィウスに持ちかけ、魂と引き替えに、という契約書に署名する。臓物をかき分けてもどこにも見当たらなかった魂と引き替えに……。
 思いを遂げるらしき暗示的な場面を経て、ファウストはマウリツィウスに殺伐とした岩山へと連れ出される。契約に従って魂を奪われるべきファウスト。だが彼は、契約書を引きちぎり、マウリツィウスに小岩をいくつも投げつけて埋もれさせ、得体の知れない生命の高揚感にいざなわれるまま、果てしなく続く岩と雪原の光景へと解き放たれたように歩み出す。"Dahin, dahin! Immer weiter!(向こうへ、向こうへ! いつまでもずっと!)"という力強い雄叫びを後に残して。魂とは、不可視の流れとして体内にみなぎり肉体を高揚させる生命感の別称であったのかもしれない。

ソウルにて、鈍重に、寡黙に

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120515ムサン日記

 渋谷のシアター・イメージフォーラムで『ムサン日記~白い犬』(パク・ジョンボム監督)を観た。
 受付に「ムサン日記――主人公スンチョルと同じくおかっぱ頭の方は割引料金1500円」というような貼り紙がしてあって、館員もさりげなく草野マサムネ顔負けのおかっぱ頭をしている。料金を払うべく「ムサン日記」と言うと、「一般料金でよろしいですか?」と館員に確認されたが、「僕、おかっぱじゃないですよね?」と問いただすまでもなく、おとなしく一般料金を払う。学生に見えたというならそれはそれでけっこうなのだけど。

 『ムサン日記』は、ソウルに暮らす脱北者を主人公に据えた韓国映画。ずんぐりした猫背の体躯におかっぱ頭のスンチョルは、ポスター貼りなどの仕事を満足にこなせず、社会の片隅でしいたげられるような毎日を生きている。その鈍重で寡黙なたたずまいが、観客としての僕を惹きつけた。
 スンチョルと同居する詐欺師紛いのギョンチョルとのあいだの、寂しい者同士、身を寄せ合いながらも反目せざるをえない関係のありかたも切ない。映画の冒頭近くで、ギョンチョルがスンチョルのために赤いハート型の枕を買ってきてやる(あるいは盗んだものかもしれない)ところなどは、荒涼とした生活空間に温かすぎるくらいの色彩を添えるものだった。スンチョルが住み処へ連れ込んだ白い捨て犬に対してギョンチョルがいだいた反発は、一種の嫉妬であるといえなくもない。
 白い犬のほか、スンチョルが多少とも心をひらいた相手として、ギョンチョル、後見人のような立場のパク刑事、それにカラオケ店で上司となる女性のスギョンがいる。誰に対しても、距離感を縮めているときであってもスンチョルは笑顔一つ見せることがなかった。白い犬に対してさえも、ほとんど。
 スンチョルが熱心に通う教会、そしてそこで歌われている賛美歌。それらは、誰もスンチョルを救うことはできないということを逆説的に突きつけているようでもある。パク刑事に連れられて訪れた、悩みを語り合う教会での集いで、北朝鮮で空腹ゆえに人を殺したという過去を突然告白するスンチョルは背中越しのアングルで映され、まるで観客である僕自身が告白を始めたような驚きを伴う。背中越しといえば、ラスト付近、カラオケ店の仕事でビールの買い出しに出たときのスンチョルの後ろ姿は、いつ背後から誰かに殴りかかられるかという不穏さに満ちていて怖いほどだった。実際には誰からも殴りかかられはせず、ただ、一つの喪失に立ち会うことになるのだが……。

コロッケを差し出す

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111107コクリコ坂から

 宮崎吾朗監督『コクリコ坂から』を観た。都内の映画館ではほとんど上映を終えていて、川崎のチネチッタまで出向くことになった。どうせならば映画の舞台である横浜まで行きたいところだったのだけど。
 吾朗監督の映画は、『ゲド戦記』に続いて二作目ということになる。一作目では、荒いという印象があった。映像が荒いし、心理描写が荒い。でも、その荒いと感じられるところも含めて、僕はわりと好感をもって観た。そして駿監督の作品にはない、病んだ感じが前面に出てくるところも、腑に落ちるものだった。
 さて、今回の二作目。映像は荒くなかったが、心理描写はやはり荒い。ぶっきらぼうというべきか。しかし、やはりそこがいい、とも思う。観ているこちらが感情の空白を想像で埋めていく作業が生じ、結果として作品世界に入り込むことになる。この映画には、ずいぶんときめいた。男の子(俊)がコロッケを買って、「食えよ」と女の子(海)に差し出すところなど、よかった。取り壊しの危機にある部室棟の魔窟的な雰囲気なんかもおもしろかった。ただ、『ゲド戦記』でもあったのだけど、主人公が非常に大粒の涙を流す場面があり、こういう理由で泣いているのだろうなと考えれば察しはつくのだけど、考えた分だけ少し置いて行かれた気分になる。そうはいっても、全般にからっとして、さわやかな映画であった。

男と女、虚構と真実

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110403トスカーナの贋作

 『トスカーナの贋作』(アッバス・キアロスタミ監督)を観に、渋谷のユーロスペースへ。

 講演に来た作家の男と、それを聞きに来た女。二人の関係の不確かさが、この映画を貫いている。
 男はイギリス人の作家であるらしく、芸術における贋作の意味について書いたエッセーで賞を取り、イタリア・トスカーナの地に講演に招かれた。女は子供とフランス語で会話しているからフランス人と思われるが、イタリアで暮らし、骨董品の店を持っている。
 女は男を自分の店に招き、そこからドライブに誘う。男は帰りの電車の時間を気にしているが、誘いに応じる。その道中、立ち寄る先々でのやり取りから、二人は知らない間柄ではないのではないか、と観る者に感じさせる。喫茶店の女主人に、二人が夫婦であると「誤解」されたのを機に、あたかも実際に夫婦であるかのようなやり取りを始める。しかし、それは夫婦のふりなのか。二人は実際、かつては夫婦だったのではないか。いや、いまでも夫婦で、夫が家になかなか寄りつかなくなっているのではないか。そんなふうにも感じさせる。最後に、男が帰りの電車のことを言うところで、やはり二人は夫婦ではなかったのかな、でも……と、二人の関係は判然としないまま終わる。
 二人の会話は、英語、フランス語、ときにはイタリア語と切り替わり、それによって二人の距離感も微妙に変わり続ける。あたかも、二人のあいだに――男と女のあいだに――ぴったりの共通言語などないかのように。二人のいだく夫婦観の溝は、ささやかなようで深い。男にとっては仕事があって家庭があって、前者に比重を置きつつも両者のチャンネルを切り替えながら生きている。女にとって夫婦生活とは――通りすがりの旅行者から男が受けた忠告に従うなら――なにも大仰なものではなく、休みの日にただ並んで歩く、そして何かをともに観て、感慨を共有する、そうしたことがだいじなのだ。
 美術に造詣の深い男は、女に連れられて、新婚旅行で泊まったという宿を訪れ、窓からそとを眺めるが、かつて見ているはずの美しい光景を、覚えていないという。彼にとって、仕事で携わる美術品に比して、新婚旅行で見た光景などは記憶するに値しないものだったのだとしたら、女にとっては、やるせないことだろう。いや、男が本物の(元)夫ではなく、ただ(元)夫のふりをしているだけだとしたら、来たこともない新婚旅行の光景を覚えていないというのは当然のことなのだが、虚構の夫であるにもかかわらず、夫というものの本質を露呈してしまっていることになる。
 二人の夫婦関係は、虚構であるかもしれないからこそ真実を鮮明に浮き彫りにするようなところがある。虚構によって真実を照らす――これは、すべての芸術に共通する原理であるともいえるし、キアロスタミはこの原理を意識的に可視化してみせながら作品世界を構築する、たぐいまれな創作者である。

台北に散る真っ赤な桜

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110127モンガに散る

 シネマート六本木にて、台湾映画『モンガに散る』を観た。
 一九八〇年代の台北の繁華街モンガを舞台にした、青春ヤクザ映画とでもいうべき作品。気弱そうな主人公の高校生・モスキートが、不良集団に迎え入れられて義兄弟の契りを交わし、ヤクザ組織の末端で、生彩あるチンピラ暮らしの日々を重ねる。序盤では、狭い街なかでの大勢入り乱れての乱闘騒ぎなど、コミカルで活気に満ちた場面が続く。モンガでは、主に二つの組織が争ったり手を結んだりして均衡状態を築いていたが、そこに大陸者の勢力が割って入り、均衡が崩れる。五人の義兄弟集団のなかでもっとも信義に厚いかに見えたモンクの裏切りにより、ヤクザ組織の親分が殺され、義兄弟たちも互いに殺し合うまでの惨劇に立ち至る。
 モスキートは、義兄弟の絆のなかに自分の居場所を見いだし、たくましさを身につけてゆき、絆を守るために裏切り者と闘うことになる。そして、裏切ったモンクのなかにも絆の片鱗が残っていたことに気づきながら死んでゆく。死に顔に浮かんだ微笑には、絆は守られた、という安堵が現れていたのだろう。しかし、モスキートやモンクの死によって、信義で結ばれた義兄弟の絆は、守られたと同時に取り返しのつかない形で消え失せてしまった。絆というのは、モスキートと娼婦シャオニンとの半プラトニックな関係にもいえることだ。人と人とが無条件に信頼し合う結びつき、そんな絆というものが、命を賭しても守りたいものであるとともに、もとから幻想であったかのように脆いものでもあるというところに、哀切なものがあった。
 父の形見としてモスキートの部屋に貼られているのが「富士山と赤い桜」の絵ハガキだったり、ヤクザの親分の名前が「ゲタ親分」(原文でも「Geta老大」とあり、Getaはおそらく外来語としての「下駄」なのだろう)だったりするところには、日本のヤクザ映画へのオマージュが埋め込まれているようにも感じられた。日本人にとって桜の色といえば、ソメイヨシノの白に近い薄ピンクということになるけれども、モスキートたち義兄弟が実物を見たことがないという桜、絵ハガキに出てきてエンディングロールでも散ってゆく桜が、血しぶきのような深紅であったのは鮮烈だった。
 モスキートを演じるマーク・チャオ(趙又廷)の眉の太い純情青年ぶりもよかったし、モンクを演じるイーサン・ルアン(阮經天)の坊主頭の精悍さもまたよかった。監督は、ニウ・チェンザー(鈕承澤)

南京の夜、東京の夜

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101207スプリング・フィーバー

 中国映画『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)を観に、渋谷のシネマライズに出かけた。
 南京の先鋭な都市生活を背景に、男と男、男と女の体のつながりが、乾いたタッチで描き出される。画質の荒い小型カメラの始終やむことのない手ぶれ感が、観る者に目まいを引き起こすようでもあり、尾行、盗撮、窃視のごとき後ろ暗さをいだかせもする。事実、尾行の場面からこの映画は始まったのだった。感情をそぎ落とした肉体主導の関係が目まぐるしくも即物的に展開するなか、その裏に潜む孤独の痛みが、ところどころで鮮烈に溢れ出る。主人公役のジャン・チョンは、尻上がりに色気を増していったように思う。探偵役のチェン・スーチョンも、その恋人役のタン・ジュオも、魅力があった。
 乗り物酔いにも似た心地悪さとともに、どこか突き抜けた人間関係の新境地を目の当たりにしたような爽快さをも覚えた。映画館を出ると、賑やかな東京の夜の雑踏があった。

角砂糖を借りに

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101113借りぐらしのアリエッティ

 池袋のシネマ・ロサにて、『借りぐらしのアリエッティ』(米林宏昌監督)を観た。
 宮崎駿監督でないジブリ作品には、重厚な大作というより、小粒ながらきらりと光る佳品という印象のものがままある気がするけれども、本作でもそうした感じを受けた。
 角砂糖一個を「借り」に小人たちが人間の家に乗り込んでいく、というのがちょっとした冒険になっているという趣向が楽しい。主人公である少女アリエッティが病弱で聡明そうな少年ショウ(翔)に寄せる恋心の切なさも鮮明に胸に伝わってきた。映像は素朴でローテク感の漂うものであり、バッタの躍動感などもよくて、心なごませるものがあった。
 人間にとって自然と調和しながら慎ましく生きていくことが大事だけれどもそれが難しくなっているのではないか。そんなテーマが作品の基底にあるように感じられた。
 赤いクリップで髪を結わえ、待針を剣代わりにスカートに差して毅然とした少女の勇姿もよく、髪をほどいてくつろいだときの少女の姿とのギャップもまたよく、同族の野蛮そうでぶっきらぼうな少年スピラーと少女との新たな関係の萌芽を感じさせるエンディングを観て、すがすがしく映画館をあとにした。

池袋で乱暴狼藉を目撃

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100814アウトレイジ

 池袋のシネマ・ロサにて北野武監督『アウトレイジ』観劇。
 ヤクザ組織の内部抗争における暴力と死の連鎖を描いた作品だ。死にまつわる湿った情念を排し、組織のなかに配置された人間たちにどのような力学が働き、破壊作用が引き起こされてゆくのかを冷徹に、かつ痛切に描き取っている。
 冒頭、駐車場にたむろする大勢のヤクザたちの黒ずくめの立ち姿が、シネマスコープの横長の画面にパンしながら長回しで映し出される。この場面がすでに、個としての人間ではなく、人間たちの組織を撮った映画だということをよく暗示している。
 抗争の発端は、組織の大ボスが部下の中ボスに対して抱いた小さな嫉妬。この中ボスが他のボスと兄弟分のつきあいをしているのが気に入らないというのだ。中ボスは、大ボスの顔を立てて兄弟分との仲の悪さを演出するため、子分の小ボス(ビートたけし演じる主人公の大友)に命じて兄弟分のグループとのあいだにいざこざを起こさせる。そのいざこざが憎悪を生み、そこに出世欲や金銭欲がからんで、組織のなかを流れる暴力のエネルギー量は増大し続け、男たちは倒し、倒され、組織は半壊に至る。しかも警察組織の一部までもがこのヤクザ組織と手を結んでいて、単なるヤクザ界の内輪もめにとどまらず、より普遍性をもった辛辣な組織論が具現化されているかのようだ。
 背広の黒にワイシャツの白、事務所のコンクリートのグレーと、モノトーンが画面を支配し、そこに血しぶきの赤が入り交じる。男たちの、浅知恵に酔って自滅する愚かさ、暴力的だが組織の力学に操られているという点での本質的な無力さが、にもかかわらず、ある種のひんやりとした美しさを伴って画面上に現れているさまは奇跡的である。
 ビートたけし演じる小ボス大友の哀感と気迫。小日向文世演じる刑事片岡のひょうひょうとした卑劣漢ぶり。杉本哲太の若頭小沢は、じつに渋い男前。組織を描いて、なおかつ個々の役者の存在感もそれぞれに光っていた。

遺された表情――古屋誠一写真展

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100627古屋誠一写真展 100627クリスティーネ

 恵比寿の東京都写真美術館に出かけ、写真展「古屋誠一 メモワール.」を観た。
 百余点に及ぶ展示写真の多くは、古屋氏の妻であるオーストリア人女性クリスティーネを被写体としたものだ。
 たとえば、こんな写真がある。倉庫のような殺風景な空間の一角に、クリスティーネがたばこを片手にしゃがみ込んでいる。カメラを見上げたその表情は、なにげなくくつろいでいるような、自然なものだ。それとほとんど同じ構図の写真がもう一枚ある。こちらは、表情が一変している。苦しみとも、悲しみとも、怒りともつかない、あるいはそれらが複雑に入り交じった表情が、彼女の顔に浮かんでいる。(これら二枚の写真を図録より引用。写真右。このサイズでは、なかなか表情はわかりづらいかと思うけれど。)
 二枚の写真に写ったたばこの長さがほぼ同じであるため、これらがごく短い時間のうちに、せいぜい数十秒程度のうちに連続して撮られたものだとわかる。この二枚の写真のあいだに、何事があったのかはわからない。彼女の脳裏に蘇った何らかの記憶がこのような表情を強いたのか、もしくは撮影者である夫とのあいだになんらかの感情的なやりとりがあったのか、それとも……。彼女のとなりに転がっているのはマーガリンの段ボール箱だが、無論、マーガリンと彼女の感情とのあいだにはなんの関係もないことだろう。とにかく、観客である僕たちは、その表情の原因、理由を知ることはできない。
 小説や映画、演劇などで人物の感情が表現されるときには、その前後で必ずといっていいほどその感情の原因、理由が提示される。僕たちは原因や理由を、つまりは感情の背後にある物語を知って、人物の感情に納得したり、同情や共感を寄せたりする。絵画や写真など、時間軸のない表現手段においても、その原因となる状況が同じ画面内に写し込まれていれば、僕たちはそこから人物の感情の由来を知ることができる。
 だが、このクリスティーネの(二枚目の)写真には、ただ、表情だけがある。それも、著しく強く、複雑で名づけがたく、観る者を惹きつけ、困惑させる表情。感情自体の磁力によって共感を呼び寄せつつ、深部への進入を拒む孤独の様相を呈してもいる。
 彼女は俳優になることを目指して学校に通ったこともあったというが、その夢は果たせなかった。彼女は物語を伝える役目には向かなかったのかもしれないが、夫の被写体となることで、得体の知れない感情そのものを、まがまがしいまでの力強さでフィルムに定着させ、観る者に謎を投げかけ、答えのない問いを発し続けることに成功した。
 クリスティーネは大学生だった一九七八年に古屋氏と知り合い、同年結婚。一九八三年から精神的な病の発作に見舞われるようになり、一九八五年、自らの手で命を絶った。そして古屋氏の手元に、僕たち観客のまえに、彼女のこの上なく不思議で、この上なく豊かな表情が遺された。

渋谷にて、ハンマーで殴られる

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100415息もできない

 渋谷のシネマライズで上映の韓国映画『息もできない』(ヤン・イクチュン監督)には打ちのめされた。
 この映画は、借金の取り立てなどを請け負うヤクザ的な一団に属する主人公サンフンと、彼に偶然出会った負けん気の強い女子高生ヨニとのかかわりを主軸とした一篇だ。
 サンフンは、色黒、短髪、チョビ髭のイモくさいなりに色気ある風貌のあんちゃんであり、何かにつけ手が出る、足が出る、粗暴極まりない男である。だが、粗暴さの鎧のうちに隠し持った純真さが、幼い甥っ子にかまけるところなどに、ときおり露呈する。彼は、父の家庭内暴力のために妹と母を亡くすという過去を背負っており、暴力への憎しみをいだいていながら、彼自身、暴力によってしか身を守れない、身を立てられない、という矛盾のなかに生きている。
 ヨニは、観る者の第一印象として、女の子ながら、ふてぶてしいとかたくましいといった言葉が似合う人物だ。彼女は、家庭内でも父や兄の暴力にさらされていながらも、暴力に屈しない、毅然とした強さを持つ女性である。サンフンがヨニに対して心を許してゆくのは、ヨニが自分の暴力性を跳ね返してくれる、粗暴さの鎧など役に立たないと教えてくれる存在だからなのかもしれない。
 暴力はこの映画に満ち満ちているが、反面、性的な要素はほとんどない。サンフンとヨニのあいだに成り立とうとしていた関係も、男と女の関係というより、仲のよい家族のきずなのようなものであり、それは彼らが現実の家族のなかで得られなかったものだ。二人は、互いに惹かれるものがありながら、ぐっと関係を近づけることも、自身をすっかりさらけ出すこともできない。なかでは、サンフンが、自殺を図った父を病院に運び込んだあとで、ヨニを漢江の川辺に呼び出し、俺は親父に献血をしてきたと告げ、ヨニの膝の上に頭を横たえて泣くところなど、サンフンがもっとも裸に近づいた、鎧を脱いだ場面だろう。そんなときでも、ヨニは自分の素性を明かさず、そこそこ恵まれた家庭環境に退屈しきっている女子高生といったふうを装い続けているところなど、けなげで切ない。
 この映画、北野武の作風を彷彿とさせるところも少なくない。暴力を基調とし、それも、軽く蹴っているような動きや音がかえって凶暴さを感じさせるところなど。また、場面の切り替えの仕方などには、笑いのセンスも垣間見えた。サンフンが子分と一緒に借金の取り立てに行って、相手をボコボコにする場面のあとに、その家で出前の飯を食っている場面が続く。しかも、取り立てられた男だけはコーンフレークを食べている。
 しかし、なんといってもこの映画の美質は、人物の存在感にある。たとえば、父への憎しみに駆られ、おまえを殴る前に酒を飲ませるのだと言って、焼酎を飲め飲めと父に強いる場面でのサンフンの瞳の異様な輝き。狂気じみた凶暴さと、傷つけられた子供の純粋さとが一体となって、この瞳の美しい光のなかに宿っていた。
 脇役たちの存在感も見事なものだ。ヤクザ的な一団のボスであるマンシクが、事務所の机に置かれた鉢植えの葉っぱに霧吹きで水をかけている。それだけの行為にも、マンシクという男の根にある好人物ぶりが十全に表れている。
 懐かしさと活力を感じさせるソウルの街の情景もいい。サンフンが、ヨニと甥っ子とともに街で過ごしている、おそらくはサンフンにとって幸福であるはずの場面を、遠くから、不安定に揺れるカメラワークで切り取り、さらにどこか寂しげなBGMをかぶせているところなどは、はかなさを感じさせて巧みである。
 絶え間ない暴力の連鎖のなかで、サンフンは子分の一人からハンマーで殴られ、命を落とすことになる。こうなるのも必然、と思わされるが、惜しむべき男を失ってしまった、とも思わされる。
 観客の一人であった僕もまた、ハンマーで殴られたような強烈な衝撃を引きずりながら、実際足元がおぼつかないほどの足取りで、渋谷の街を歩いていった。

 ***

 実は、この文章を書いてから、人名などを確認するため、パンフレットを初めて開いた。そこで分かったこと。主人公を演じていたのは、監督自身だった。脚本も監督が書いたとのこと。その多才ぶりに、あらためて感嘆。




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