北條君と過ごしたインド
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当面の命をつなぐためにインドへと旅立ったのは、ずいぶんとでたらめな行動だったようだけれど、いまもこうして生き延びているのだから、あながち悪い決断ではなかったに違いない。あれからもう十数年が経っている。
当時二十六歳だった僕は、ドイツ文学研究の道に入りながらも、歩きつづけてゆく見通しも意欲も失っていた。どうにかして生きていたい、という欲求すらも底をつこうとしていたようだ。僕が充分に向こう見ずだったなら、自発的に黄泉の国へと駆け去っていたかもしれない。けれども足がもつれて、行き先はインドになっていた。人生に行き詰まってインドに向かうようなまねだけはするまい、と心に誓っていたはずなのに。きっとそんなふうに思いはじめていた時点で、僕はいつかインドに行くような人間になりつつあったのだ。
旅立ちに至るまで、インドとの接点などほとんど何もありはしなかった。強いて思い起こせば、保育園児のころに東京の高円寺に住んでいて、母に連れられて駅前の「むげん堂」という店を訪れたことがしばしばあった。インドの雑貨を扱うこの店で、僕はかすかなお香のにおいをかぎながら、真鍮の象の置物や、色鮮やかなビーズのネックレスやなんかを眺めていたのではなかったか。
成田発、バンコク経由、デリー行きの航空券を買って、飛び立った。デリーから先、どこへ行くとも決めていなかった。
街のなかに安宿の連なる一角があると、そこにバックパックを背負った外国人たちが集まってくる。ニューデリー駅前のメインバザールという通りの周辺も、そんな場所だった。たまたま出会った放浪中のバックパッカーと食堂で、カレーをつけたチャパティを食い、ラッシーやチャイを飲みながら話をするうちに、次に行ってみたい街が見えてくる。そんなことを繰り返しながら、街から街へとさまようごとくに旅を続けた。宿賃は、一泊五十ルピーから百数十ルピー程度。一ルピーは二・五円ほどだった。日々の暮らしが安上がりで済むことも、当座の延命には重要なことだった。日韓共催のワールドカップの時期にわざわざ日本を離れていたものだから、「サッカーが嫌いなのか」と現地の人から揶揄されることもあった。
白亜の大霊廟タージ・マハルの建つアグラに寄ったのち、ガンジス河のほとりで死者を焼くヒンドゥー教の聖地バラナシに滞留。そしてブッダが菩提樹のしたで悟りをひらいた地とされるブッダガヤを経て、僕はラージギルという小さな街に向かうことにした。この地には温泉があるという。
古ぼけたバスのなかで悪路に揺られ、目的地に至るまで、僕の尻は座席のうえで絶え間なく跳ねつづけた。山あいの荒野を貫く一本の道があり、その周囲に宿、食堂、それに仏教やジャイナ教の寺院が散らばっている。ラージギルはそんな素朴な姿の街だった。温泉は、ピンク色の外壁のヒンドゥー寺院の敷地内にあった。壁で四角に囲まれた深い窪地の底に、濁った灰色のお湯が溜まっていて、そこへ階段で下りてゆく。念のためにバックパックに突っ込んできていた水泳パンツが役立った。安宿の水シャワーばかりで過ごしてきた身には、地元の入浴客たちとつかる久々の浴槽はありがたく、ぬるめの湯加減が心地よかった。
宿の部屋で過ごす折には、天井に吊り下がった大きなファンをまわして四十度を超す酷暑を紛らわしつつ、かけ布団のない簡素なベッドのへりに座って、本をひらくことがあった。たいていは旅のガイドブックや、現地で買った英語版の列車の時刻表だったけれど、一冊だけインドで読み通した文庫本がある。北條民雄の『いのちの初夜』、表題作を含む八篇から成る短篇集だ。すっかり黄ばんだ紙面の最後のページには、古本屋が値つけしたときの「100」という鉛筆の走り書きが残っている。未読のまま書棚に置いていたのを持参したのは、この旅で読むのにふさわしいものだという何かしらの予感があったからなのだろう。
巻頭の表題作では、まだ有効な治療法の確立していなかったハンセン病のため、主人公が療養所に入るなりゆきが描かれる。入所をまえに死を思い立った主人公は、海辺の岩頭にたたずむ。けれどもそこから一歩を踏み出さず、足元に見かけたカニを踏みつぶす。その鮮烈な光景が、僕の胸のうちに奇妙に強く焼きつけられた。「どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです」とは、同病の男から主人公がかけられた言葉であり、読者の僕が受け取った言葉でもあった。作者自身、ハンセン病を患いながら執筆を続け、二十代の前半にして腸結核で亡くなっている。その若さのためというより、むしろ作者に覚えた親しみゆえに、北條君、と呼びかけたい気持ちを僕はいだいた。
ラージギルから次の街へと向かう列車のなかで、木製のボックスシートに座って、文庫本をひらいた。異国人を珍しく思ったのだろう、周囲の乗客たちが僕の手元をのぞき込んできた。言い交わしている言葉の意味はわからなかったけれど、手ぶりから、「文字が縦に並んでいる」ということを話題にしているらしいとうかがい知れた。
旅のあいだにはさまざまな出会いがあり、しばらくの道中をともにした「仲間」と呼べる人たちもいた。そんな旅路の最初から最後まで、バックパックに収まってずっと一緒だったのが、北條民雄の本だった。北條君も紛れもなく、僕にとっては旅の仲間だ。彼は自身の危機を生きながら、未来の読者をそっと支える強さを備えていた。
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当面の命をつなぐためにインドへと旅立ったのは、ずいぶんとでたらめな行動だったようだけれど、いまもこうして生き延びているのだから、あながち悪い決断ではなかったに違いない。あれからもう十数年が経っている。
当時二十六歳だった僕は、ドイツ文学研究の道に入りながらも、歩きつづけてゆく見通しも意欲も失っていた。どうにかして生きていたい、という欲求すらも底をつこうとしていたようだ。僕が充分に向こう見ずだったなら、自発的に黄泉の国へと駆け去っていたかもしれない。けれども足がもつれて、行き先はインドになっていた。人生に行き詰まってインドに向かうようなまねだけはするまい、と心に誓っていたはずなのに。きっとそんなふうに思いはじめていた時点で、僕はいつかインドに行くような人間になりつつあったのだ。
旅立ちに至るまで、インドとの接点などほとんど何もありはしなかった。強いて思い起こせば、保育園児のころに東京の高円寺に住んでいて、母に連れられて駅前の「むげん堂」という店を訪れたことがしばしばあった。インドの雑貨を扱うこの店で、僕はかすかなお香のにおいをかぎながら、真鍮の象の置物や、色鮮やかなビーズのネックレスやなんかを眺めていたのではなかったか。
成田発、バンコク経由、デリー行きの航空券を買って、飛び立った。デリーから先、どこへ行くとも決めていなかった。
街のなかに安宿の連なる一角があると、そこにバックパックを背負った外国人たちが集まってくる。ニューデリー駅前のメインバザールという通りの周辺も、そんな場所だった。たまたま出会った放浪中のバックパッカーと食堂で、カレーをつけたチャパティを食い、ラッシーやチャイを飲みながら話をするうちに、次に行ってみたい街が見えてくる。そんなことを繰り返しながら、街から街へとさまようごとくに旅を続けた。宿賃は、一泊五十ルピーから百数十ルピー程度。一ルピーは二・五円ほどだった。日々の暮らしが安上がりで済むことも、当座の延命には重要なことだった。日韓共催のワールドカップの時期にわざわざ日本を離れていたものだから、「サッカーが嫌いなのか」と現地の人から揶揄されることもあった。
白亜の大霊廟タージ・マハルの建つアグラに寄ったのち、ガンジス河のほとりで死者を焼くヒンドゥー教の聖地バラナシに滞留。そしてブッダが菩提樹のしたで悟りをひらいた地とされるブッダガヤを経て、僕はラージギルという小さな街に向かうことにした。この地には温泉があるという。
古ぼけたバスのなかで悪路に揺られ、目的地に至るまで、僕の尻は座席のうえで絶え間なく跳ねつづけた。山あいの荒野を貫く一本の道があり、その周囲に宿、食堂、それに仏教やジャイナ教の寺院が散らばっている。ラージギルはそんな素朴な姿の街だった。温泉は、ピンク色の外壁のヒンドゥー寺院の敷地内にあった。壁で四角に囲まれた深い窪地の底に、濁った灰色のお湯が溜まっていて、そこへ階段で下りてゆく。念のためにバックパックに突っ込んできていた水泳パンツが役立った。安宿の水シャワーばかりで過ごしてきた身には、地元の入浴客たちとつかる久々の浴槽はありがたく、ぬるめの湯加減が心地よかった。
宿の部屋で過ごす折には、天井に吊り下がった大きなファンをまわして四十度を超す酷暑を紛らわしつつ、かけ布団のない簡素なベッドのへりに座って、本をひらくことがあった。たいていは旅のガイドブックや、現地で買った英語版の列車の時刻表だったけれど、一冊だけインドで読み通した文庫本がある。北條民雄の『いのちの初夜』、表題作を含む八篇から成る短篇集だ。すっかり黄ばんだ紙面の最後のページには、古本屋が値つけしたときの「100」という鉛筆の走り書きが残っている。未読のまま書棚に置いていたのを持参したのは、この旅で読むのにふさわしいものだという何かしらの予感があったからなのだろう。
巻頭の表題作では、まだ有効な治療法の確立していなかったハンセン病のため、主人公が療養所に入るなりゆきが描かれる。入所をまえに死を思い立った主人公は、海辺の岩頭にたたずむ。けれどもそこから一歩を踏み出さず、足元に見かけたカニを踏みつぶす。その鮮烈な光景が、僕の胸のうちに奇妙に強く焼きつけられた。「どこまで行っても人生にはきっと抜け道があると思うのです」とは、同病の男から主人公がかけられた言葉であり、読者の僕が受け取った言葉でもあった。作者自身、ハンセン病を患いながら執筆を続け、二十代の前半にして腸結核で亡くなっている。その若さのためというより、むしろ作者に覚えた親しみゆえに、北條君、と呼びかけたい気持ちを僕はいだいた。
ラージギルから次の街へと向かう列車のなかで、木製のボックスシートに座って、文庫本をひらいた。異国人を珍しく思ったのだろう、周囲の乗客たちが僕の手元をのぞき込んできた。言い交わしている言葉の意味はわからなかったけれど、手ぶりから、「文字が縦に並んでいる」ということを話題にしているらしいとうかがい知れた。
旅のあいだにはさまざまな出会いがあり、しばらくの道中をともにした「仲間」と呼べる人たちもいた。そんな旅路の最初から最後まで、バックパックに収まってずっと一緒だったのが、北條民雄の本だった。北條君も紛れもなく、僕にとっては旅の仲間だ。彼は自身の危機を生きながら、未来の読者をそっと支える強さを備えていた。