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僕の選んだ鉄道で行ける秘湯ベスト3

 生まれてこのかた、僕はいったいどのくらい温泉に入ることができただろう。そんなことを考えてみると、物足りないような、寂しいような気分になる。日本に名高い温泉は数多いけれど、いつか行ってみたいと思ってそれっきりになっているところがほとんどだ。出張のついでに立ち寄った別府温泉などは、幸運な例外といえる。打ち合わせの相手が大分在住だったことに感謝するしかない。
 車の免許を持っていないので、鉄道で行けるかどうかは僕にとって大事な点だ。鉄道とバスを乗り継げば選択肢はさらに広がるけれど、鉄道だけで行ける範囲で、僕なりに秘湯ベスト3を選んでみた。
 第三位、京王井の頭線で行く高井戸温泉。大学進学を機に仙台から上京してきて最初の二年間、僕は杉並区の高井戸という街に暮らした。高架上の駅の真下を環八道路が突っ切っていて、車通りは多いけれども人通りは少なく、ゴミ焼却場の白い煙突がランドマークのように駅前にそびえていた。地方から出てきた学生が住むにはいささか活気に乏しく、当時の感覚をもとに不遜な言いかたをするならば、「何もない街」だった。風呂なしのアパートに住み、銭湯に行ったり、コインランドリーに併設されたコインシャワーを使ったりしていたものだ。あの高井戸で温泉が出たと知ったのは、会社勤めを始めたあとのことだった。地下千六百メートルあたりで掘り当てたという。何もないと思っていたのだけれど、地中深くに秘められたものがあったのだ。行ってみると温泉施設ができていて、琥珀色の湯をたたえた露天風呂が心地よかった。
 第二位、大井川鐵道井川線で行く接岨峡温泉。歯車に特殊なレールを噛み合わせて急勾配を乗り越えるアプト式区間のある井川線で、静岡の大井川沿いの山あいをのぼってゆくと、森のはざまにひっそりと湧く温泉がある。滞在中、森を散歩していたら、いつのまにか足にヒルが取りつき、血を吸っていた。傷はすぐに温泉で癒やした。
 第一位、黒部峡谷鉄道トロッコ電車で行く鐘釣温泉。富山の黒部川沿いの山奥に、軌間の狭いトロッコ電車で分け入ってゆけば、この温泉にたどり着く。谷間の河原に掘られた穴に湯が湧いていて、川の水と入り交じってちょうどよい湯加減になったところにつかるという、原始的な露天風呂を堪能した。入浴中、アブによく噛まれた。
 僕の書いた小説『いつか深い穴に落ちるまで』では、日本からブラジルまで通じる穴を掘るための工事をしていたら、うっかり温泉に突き当たってしまうという場面がある。場所は、富士山の山梨県側のふもとのあたり。一度行ってみたいのだけれど、虚構の温泉なので、どの駅で降りてもたどり着くことはできない。

掲載サイト : Webジェイ・ノベル(二〇一九年七月三十日掲載)
「私の○○ベスト3」のコーナーに掲載
[掲載コーナーのページ]https://j-nbooks.jp/…

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