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孤島の飛来人(ひらいじん) (冒頭)

 決行のときが迫っていた。充分な準備が整っていたとはいいがたく、見切り発車という言葉こそがふさわしかった。直前にストップがかかってしまえばそれまでだ。もはや一刻の猶予もならない。
 二十世紀も残すところ二年を切った、三月下旬の夜だった。横浜駅のすぐ東の湾岸部に二十階超のオフィスビルが建っていて、その屋上に、僕らはいた。このビルのなかで静かに進められてきた研究の結果がいま、問われようとしている。風船飛行の実証実験に乗り出すときだ。
 いっそ当てつけのように、銀座の本社ビルから飛び立ってしまえ、というプランも検討されていた。夜間とはいえ、それでは人目につきやすく、海上に出るまでに多くの目撃者が出るだろう。成功が約束されているのなら、見られたってかまわない。だが、そんな約束はどこにもなかった。
 日本の大手自動車メーカーの一つが、深刻な経営危機を脱するため、フランス企業の傘下に入る。その交渉が進展し、合意に向けて大詰めを迎えている。我が社に関するそんな報道に僕が出くわしたのは、つい先日、出社途中の電車のなかで新聞を読んでいたときだった。えっ、そうなの? と驚きを覚えはしたものの、そのときはまだ、自分の身にどんな影響が及ぶことになるのか、見当もつかなかった。
 連日にわたって、僕の属する研究チームで緊急会議がひらかれた。上司や先輩たちは、今後について厳しい見通しをもっていた。合理化のかけ声のもと、不採算部門が次々と整理されてゆくことだろう。そうなれば、このチームなどひとたまりもない。もともと予算配分の少ない部署だったけれど、近年とくに絞り込まれていた。何もするなということなのか、とチームリーダーがため息交じりにこぼすのを僕が耳にしたのは、それほどまえのことではなかった。このままでは会社の将来を切り拓くべき貴重な事業の芽が摘み取られてしまう。そんな状況認識を僕も共有せざるを得なかった。僕らの研究がどれほど有望なものなのか、わかってもらうにはどうすればいい? フランス語で伝え、説得できるだけの自信のある者は誰もいなかった。ならば、行動で示すよりほかはない。座して取りつぶしを待つくらいなら、いまこそ立ち上がり、はっきりと目に見える実績を残すべきではないか。チームで導き出した結論が、それだった。ただ、一歩を踏み出すには少しばかり度胸が必要だった。
 じゃあ、誰が行く? 議論がそこまで及んだとき、僕は一瞬、息をひそめて周囲の様子に注意を払い、ほかに名乗りをあげる人がいないことを確かめた。それから、意を決してきっぱりと言った。僕が行きます、と。そして出発の日がやってきたのだ。
「そろそろ、桜の見頃ですかね」
 ひんやりとした夜風に吹かれながら、僕はつぶやいた。
「こんなに急ぎじゃなければ、壮行会がてら、花見ができたのに」
 心残りをにじませたように、チームリーダーの遠藤が言った。
 ビルの屋上に集まっていたのは、僕を含めて五人。チームのメンバーは、出張中の二人を加えて総勢七人だった。二十代のなかばを過ぎた僕が最年少で、二番目に若い遠藤が四十代のなかば近く、あとはみな五十代のベテラン技術者たちだ。新人のときに配属された僕のほかは、かつて自動車のエンジンや車体、装備品などの開発に励んできた人たちだった。彼らにとっては最後の一花になるかもしれず、僕にとっては最初の一花になるはずのもの。それが、僕の背中に結びつけられている風船だった。計画より一世紀も早められた狂い咲きの花が、闇のなかでひっそりとひらいていた。
 紫、青、水色、黄緑、黄色、だいだい色が一つずつ。ヘリウムガスでふくらんだ、やけに大きな六つの風船。僕はグレーのスーツに赤いネクタイを締めていた。スーツのうえからたすきがけに装着した黒いナイロンのベルトの背中側に、丈夫な糸で風船が結ばれている。へそ下あたりから何本かのロープが垂れていて、それぞれが土嚢の重しにつながっている。それでも僕の靴底は、すでに地上から少しばかり浮いていた。
 遠藤が腕時計に目を落とすと、顔を上げ、
「いいだろう」と静かに言った。
 重しのロープを束ねてベルトにつないでいた留め金を、僕は外した。風船が僕の体を夜空へと引き上げる。こちらを見上げるチームのメンバーたちの顔が、みるみる縮んでゆく。全身を引き戻すような軽い衝撃が走る。屋上のふちの柵に結ばれたロープがぴんと張って、上昇の動きに歯止めをかけていた。前方に目を向ける。都会の夜が、街明かりにほんのりと照り返されていた。
 うえを見やれば、六つの風船が揺らいでいる。一つだけでも、チームのメンバー七人をすっぽりと包んで余りあるほどの大きさがあった。
 僕はいま、凧だろうか。いや、人間アドバルーンだ。いったい何を宣伝しているんだろう。人間の、可能性を? それとも、愚かさを?
 花冷えを感じさせる風が、僕の体を南へとなびかせる。風向きや、よし。見送りの人々に目配せするように、まなざしをしたに向けた。
 ビルの屋上に出るドアがひらいた。白い明かりが漏れ出てくる。駆け出すように現れたのは三人。上空より見える髪の色や顔立ちから、いずれも外国人らしいとうかがい知れた。フランスからの査察団が訪れるのは、あすということではなかったか。三人のうち先頭に立った男が、身振りを交えて遠藤たちに何か言っている。遠藤は、両手を腹のまえに合わせて、うやうやしく受け答えしている様子だった。先頭の男が、両手を振って叫ぶように訴えかけている。遠藤が顔を仰向けにして、上空に人差し指を突き出した。三人の外国人たちが視線を上げた。僕は最後の留め金を外した。地上との結びつきを失った僕が、空へと吸い上げられてゆく。
 眼下には、黄色みをはらんだ光の粒が無数に散らばっていた。点線状に並んだ濃いだいだい色の明かりが、高速道路をふち取っている。ところどころで赤い照明が点滅し、高層ビルや鉄塔の存在を告げている。
 平泳ぎをするように、空中を手で掻き、足で蹴ってみる。手応え、足応えはほとんどない。少しずつでも、望む方向に進んでゆかなくては。僕は未来の事業の命運を背負って飛び立ったのだ。実際に背負っているのは、空気よりも軽いものだったけれど。
 上昇を続けながら、まえへと進む。北から届く風が、帆となった風船を押し、僕の体を運んでゆく。眼下に散った光の粒が、速度を増して流れつづける。やがて、地上から光が絶えた。漆黒の海原の上空へと、僕は乗り出していた。しばらく目をこらしていると、海面がほの青い微光を放っているのが見えてきた。見上げると、闇に紛れてくすんだ風船のかなたに、多彩にまたたく星空が広がっていた。


単行本 : 『孤島の飛来人( ひ らいじん)』中央公論新社、二〇二二年八月
*表題作のほか、短篇「孤島をめぐる本と旅」を収録。
[単行本の詳細]https://www.chuko.co.jp/…
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[作者による冒頭朗読]https://www.youtube.com/…

掲載誌 : 『文藝』二〇一九年冬号(十月七日発売)
[掲載誌の詳細]https://www.kawade.co.jp/…

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