大観音の傾き (冒頭)
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東北の大きな街の丘のうえに、白くて異様に巨大なものがそびえ立っている。全身純白の大観音だ。そのすぐ近くまで、ついに修司はやってきた。
真正面に立って視線をゆっくり傾けてゆくと、ほとんど真上を見るくらいに至ったところで、ようやく巨像の顔に行き着いた。思わず、ため息が漏れる。こんなに近づいても、顔まではまだ遠い。ふっくらとしてつややかな頬の白さに、呆然と目を向けていた。
丘に立つ大観音は、ずっと離れたところからでもよく見えた。修司もこの街で暮らしはじめて以来、ときおり視界に姿を認めてきた。あるときは駅前の三十階を超すビルの展望台から、またあるときは古城の跡の青葉が茂る山のうえから、遠くを眺めていた折のことだ。ニュータウンの街並みと山林の入り交じる景色に少しも溶け込むことなく、真っ白に屹立した存在が、違和感とともに目に飛び込んできたものだった。
いま、その姿が眼前にあり、朝の光を一身に受けて輝いている。右手に載せた宝の珠と、左手に持った水差しは、かなりの大きさながらも、巨大な像の手中にあってはほどよく収まっているようだった。まなざしは、はるかかなた、街の中心部のほうに向けられている。それでも、すぐそばにたたずむ自分もまた、見られている。目が合っていないのに純白のまなこに見つめ返されている。そんなふうに修司は感じた。
大観音が、傾いている? みるみる傾きを増して、こちらへ倒れ込んでくる。その瞬間を想像し、思わず修司は目を閉じた。いまそうなったら我が身は助かるまい。まぶたをひらくと、大観音は穏やかな、少し無愛想にも見える顔をして、もとのままの位置に立っていた。傾いているのか、いないのか。確かなことはわからない。だからこそ確認が求められていた。
大きな姿を仰ぎ見ながら、コンクリートで固められた周囲の地面をゆっくりとめぐってゆく。衣をまとっていても体つきはうかがい知れた。腹のあたりがややまえに出て、肩が後ろに寄っていて、ゆるやかに屈曲している。あたかも人間そのもののような姿勢が、正面から横手にまわると、はっきり見て取れた。じつは大きな人間がじっと立っているのではないか。そんなことを思いつつ、左を向いた横顔に目をやっていた。ここへ来るまでは、まさか傾いているわけがない、と高をくくっていた。けれどこうして間近で眺めていると、ひょっとして、と少し不安になってくる。
大観音の背後へ歩いてゆく。背中が高くそびえ、肩から頭部にかけては頭巾で覆われていて、髪は見えない。ちぎれ雲の点々と浮かんだ春の空には、やわらかい青さがどこまでも広がっている。白い頭巾と衣をたどって視線を下ろしてゆくと、途中に小さな四角いくぼみがいくつかあって、窓なのだろうかと思われた。足元の台座もまた白く、蓮の花びらを模したらしいおうとつが刻まれている。台座と合わせて高さ百メートルに及ぶ大観音。修司の視線はふたたび背中を這いのぼり、空へと抜けた。巨像の後ろ姿が投げかける影のなかにたたずみながら、修司はふと、大観音の寂しさを思った。こんなに大きな姿で、ほかに並ぶ者もなく、ずっとここに一人で立っているのだ。
風に吹かれたわけでもないのだけれど、立ち尽くす自分の体がわずかばかり前後に揺らいでいるのを修司は感じた。絶えず重心がかすかに動いていて、行きすぎないように足が歯止めをかけている。体のなかで力と力がせめぎ合い、結果としてまっすぐ立っているのだと自覚した。目のまえの大観音も、そうなのだろうか。揺れているようには見えないけれど。
振り返ると、お寺の建物が目に留まる。軒先に垂れ下がった五色の幕が目立っていたものの、建物自体は直線的で簡素な造りのようだった。ここの主役である大観音の邪魔をしないよう、あえてそっけない建物にしてあるのかと思ったほどだ。
またゆっくりと歩いてゆく。さきほどとは逆方向から、右向きの横顔を眺める。衣に包まれた腕、脇腹、脚へと視線を移しつつ、修司はふと自問する。僕が生まれてから二十二年あまりのあいだに、これほどまでに誰かの体をじっくり見つめたことがあっただろうか、と。大観音のほうが修司よりも年上ではあるものの、この地に立ってからまだ三十年にはならなかった。
修司は正面に戻ってきた。大観音と修司のあいだには、石材に縁取りされた円形の一画があった。元来は人工の池だったのだろうけれど、いまは水が張られていない。その空っぽの池の左右に階段があり、池のへりをめぐるようにのぼっていって一ヶ所にかち合ったところで、真っ白な竜の顔の像が大きく口をあけている。何人もの人々をたやすく丸呑みにできそうなほどにひらかれたその口が、大観音の胎内への入口になっていた。竜は顔だけそとに突き出して、台座のなかにとぐろを巻いて身をひそめているかのようだった。
まだ開場には早かったけれど、さっきはいなかった人の姿が四人ほど、竜の口のまわりに見えた。いずれも老齢とおぼしき人々で、二人ずつ右と左に分かれ、竜の下あごに生えた牙を懸命に押している。修司は水の涸れた池を隔てて、老人たちを慎重に見守っていた。
奇異な振る舞いだった。全員が白装束に身を包んでいたなら、その奇異さは完璧に近いものになっていたかもしれない。けれど彼らは散歩の途中にここへ立ち寄ったかのような普段着をまとい、ただ竜の牙を押すという行動だけがいささか見慣れぬものだった。そんなことで大観音の傾きが正せるものなのだろうか。もしも傾いていたらの話だけれど……。接近を試みるべきか。これは仕事なのだ、と心に言い聞かせる。
修司は池の右手にまわり込み、階段をそっと上がりはじめた。よいしょ、うんっ、とかすかに声が聞こえてくる。四人のうちの唯一の男性が、近づいてくる人の気配を察したらしく、牙に手をかけたまま顔を向けた。のぼりきったところで、修司は軽く頭を下げ、
「おはようございます」と声をかけた。
老人が牙から手を放し、縁なし眼鏡越しにけげんそうなまなざしを向けている。
「市役所の者です」と修司は言った。「新任の高村と申します」
何か了解したかのように老人が目を見ひらいた。修司は手にしていたカバンを腕に引っかけると、濃紺のスーツの襟元に手を差し入れて、内ポケットから名刺入れを取り出した。
「防災安全を担当しております」
新入職員として勤めだして初めて差し出す名刺に、修司はかすかな高揚を覚えた。老人は名刺を受け取ると、眼鏡の位置を片手でずらしながら文字を眺め、ふたたび修司に目を向けて、
「よろしく。わたし、岩田です。名刺は持ってませんけど、町内会長をやってます」と言ってから、「けっして怪しいもんじゃない」
と付け足して、照れ隠しのように笑顔を見せた。
「もちろんです」
修司は控えめに笑みを浮かべてうなずいた。わざわざ怪しくないと断る程度には、自分たちの振る舞いが怪しく見えるという自覚があるらしい。岩田と名乗った老人は、名刺をズボンのポケットにしまいつつ、
「前任の人……」とつぶやいた。「あれっ? 名前、なんていったかな」
「沢井ですか」
「あ、そうだそうだ。彼女は三年ぐらい、いたのかな。どこ行っちゃった? 辞めちゃった?」
「いえ、本庁に異動になりまして、入れ替わりにわたしが……」
「そうですか。じゃ、ええと……」
岩田はポケットからさっきの名刺を取り出すと、
「高村さん」と名前を確認し、「一緒に、竜の牙を押しましょうか」
そうきたか、と修司は思う。牙を押しつづける三人の老婆たちに、修司の視線が向けられた。一人はパーマをかけていて、もう一人はさっぱりとした短髪、さらにもう一人は髪を後ろで束ねている。幼児の背丈ほどの高さの牙に取りついて、腰を落とし、体重をかけるようにぐいぐいと押す。よいしょ。どっこいしょ。
「いや、それが……」と修司が口ごもると、
「スーツでも大丈夫だよ」と気安く岩田が応じた。
「わたしは職務上、押すわけには……」
「職務でなくて個人の行動として、やったらいいっちゃ。わたしらもボランティアだから。なっ?」
なっ? と言われても……。
「まずは事実確認を進めてまいりますので、すみません」と修司は気弱に言った。
すると、パーマ頭の老婆が牙を抱えたまま振り向いた。その射るようなまなざしに、修司はたじろいだ。
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東北の大きな街の丘のうえに、白くて異様に巨大なものがそびえ立っている。全身純白の大観音だ。そのすぐ近くまで、ついに修司はやってきた。
真正面に立って視線をゆっくり傾けてゆくと、ほとんど真上を見るくらいに至ったところで、ようやく巨像の顔に行き着いた。思わず、ため息が漏れる。こんなに近づいても、顔まではまだ遠い。ふっくらとしてつややかな頬の白さに、呆然と目を向けていた。
丘に立つ大観音は、ずっと離れたところからでもよく見えた。修司もこの街で暮らしはじめて以来、ときおり視界に姿を認めてきた。あるときは駅前の三十階を超すビルの展望台から、またあるときは古城の跡の青葉が茂る山のうえから、遠くを眺めていた折のことだ。ニュータウンの街並みと山林の入り交じる景色に少しも溶け込むことなく、真っ白に屹立した存在が、違和感とともに目に飛び込んできたものだった。
いま、その姿が眼前にあり、朝の光を一身に受けて輝いている。右手に載せた宝の珠と、左手に持った水差しは、かなりの大きさながらも、巨大な像の手中にあってはほどよく収まっているようだった。まなざしは、はるかかなた、街の中心部のほうに向けられている。それでも、すぐそばにたたずむ自分もまた、見られている。目が合っていないのに純白のまなこに見つめ返されている。そんなふうに修司は感じた。
大観音が、傾いている? みるみる傾きを増して、こちらへ倒れ込んでくる。その瞬間を想像し、思わず修司は目を閉じた。いまそうなったら我が身は助かるまい。まぶたをひらくと、大観音は穏やかな、少し無愛想にも見える顔をして、もとのままの位置に立っていた。傾いているのか、いないのか。確かなことはわからない。だからこそ確認が求められていた。
大きな姿を仰ぎ見ながら、コンクリートで固められた周囲の地面をゆっくりとめぐってゆく。衣をまとっていても体つきはうかがい知れた。腹のあたりがややまえに出て、肩が後ろに寄っていて、ゆるやかに屈曲している。あたかも人間そのもののような姿勢が、正面から横手にまわると、はっきり見て取れた。じつは大きな人間がじっと立っているのではないか。そんなことを思いつつ、左を向いた横顔に目をやっていた。ここへ来るまでは、まさか傾いているわけがない、と高をくくっていた。けれどこうして間近で眺めていると、ひょっとして、と少し不安になってくる。
大観音の背後へ歩いてゆく。背中が高くそびえ、肩から頭部にかけては頭巾で覆われていて、髪は見えない。ちぎれ雲の点々と浮かんだ春の空には、やわらかい青さがどこまでも広がっている。白い頭巾と衣をたどって視線を下ろしてゆくと、途中に小さな四角いくぼみがいくつかあって、窓なのだろうかと思われた。足元の台座もまた白く、蓮の花びらを模したらしいおうとつが刻まれている。台座と合わせて高さ百メートルに及ぶ大観音。修司の視線はふたたび背中を這いのぼり、空へと抜けた。巨像の後ろ姿が投げかける影のなかにたたずみながら、修司はふと、大観音の寂しさを思った。こんなに大きな姿で、ほかに並ぶ者もなく、ずっとここに一人で立っているのだ。
風に吹かれたわけでもないのだけれど、立ち尽くす自分の体がわずかばかり前後に揺らいでいるのを修司は感じた。絶えず重心がかすかに動いていて、行きすぎないように足が歯止めをかけている。体のなかで力と力がせめぎ合い、結果としてまっすぐ立っているのだと自覚した。目のまえの大観音も、そうなのだろうか。揺れているようには見えないけれど。
振り返ると、お寺の建物が目に留まる。軒先に垂れ下がった五色の幕が目立っていたものの、建物自体は直線的で簡素な造りのようだった。ここの主役である大観音の邪魔をしないよう、あえてそっけない建物にしてあるのかと思ったほどだ。
またゆっくりと歩いてゆく。さきほどとは逆方向から、右向きの横顔を眺める。衣に包まれた腕、脇腹、脚へと視線を移しつつ、修司はふと自問する。僕が生まれてから二十二年あまりのあいだに、これほどまでに誰かの体をじっくり見つめたことがあっただろうか、と。大観音のほうが修司よりも年上ではあるものの、この地に立ってからまだ三十年にはならなかった。
修司は正面に戻ってきた。大観音と修司のあいだには、石材に縁取りされた円形の一画があった。元来は人工の池だったのだろうけれど、いまは水が張られていない。その空っぽの池の左右に階段があり、池のへりをめぐるようにのぼっていって一ヶ所にかち合ったところで、真っ白な竜の顔の像が大きく口をあけている。何人もの人々をたやすく丸呑みにできそうなほどにひらかれたその口が、大観音の胎内への入口になっていた。竜は顔だけそとに突き出して、台座のなかにとぐろを巻いて身をひそめているかのようだった。
まだ開場には早かったけれど、さっきはいなかった人の姿が四人ほど、竜の口のまわりに見えた。いずれも老齢とおぼしき人々で、二人ずつ右と左に分かれ、竜の下あごに生えた牙を懸命に押している。修司は水の涸れた池を隔てて、老人たちを慎重に見守っていた。
奇異な振る舞いだった。全員が白装束に身を包んでいたなら、その奇異さは完璧に近いものになっていたかもしれない。けれど彼らは散歩の途中にここへ立ち寄ったかのような普段着をまとい、ただ竜の牙を押すという行動だけがいささか見慣れぬものだった。そんなことで大観音の傾きが正せるものなのだろうか。もしも傾いていたらの話だけれど……。接近を試みるべきか。これは仕事なのだ、と心に言い聞かせる。
修司は池の右手にまわり込み、階段をそっと上がりはじめた。よいしょ、うんっ、とかすかに声が聞こえてくる。四人のうちの唯一の男性が、近づいてくる人の気配を察したらしく、牙に手をかけたまま顔を向けた。のぼりきったところで、修司は軽く頭を下げ、
「おはようございます」と声をかけた。
老人が牙から手を放し、縁なし眼鏡越しにけげんそうなまなざしを向けている。
「市役所の者です」と修司は言った。「新任の高村と申します」
何か了解したかのように老人が目を見ひらいた。修司は手にしていたカバンを腕に引っかけると、濃紺のスーツの襟元に手を差し入れて、内ポケットから名刺入れを取り出した。
「防災安全を担当しております」
新入職員として勤めだして初めて差し出す名刺に、修司はかすかな高揚を覚えた。老人は名刺を受け取ると、眼鏡の位置を片手でずらしながら文字を眺め、ふたたび修司に目を向けて、
「よろしく。わたし、岩田です。名刺は持ってませんけど、町内会長をやってます」と言ってから、「けっして怪しいもんじゃない」
と付け足して、照れ隠しのように笑顔を見せた。
「もちろんです」
修司は控えめに笑みを浮かべてうなずいた。わざわざ怪しくないと断る程度には、自分たちの振る舞いが怪しく見えるという自覚があるらしい。岩田と名乗った老人は、名刺をズボンのポケットにしまいつつ、
「前任の人……」とつぶやいた。「あれっ? 名前、なんていったかな」
「沢井ですか」
「あ、そうだそうだ。彼女は三年ぐらい、いたのかな。どこ行っちゃった? 辞めちゃった?」
「いえ、本庁に異動になりまして、入れ替わりにわたしが……」
「そうですか。じゃ、ええと……」
岩田はポケットからさっきの名刺を取り出すと、
「高村さん」と名前を確認し、「一緒に、竜の牙を押しましょうか」
そうきたか、と修司は思う。牙を押しつづける三人の老婆たちに、修司の視線が向けられた。一人はパーマをかけていて、もう一人はさっぱりとした短髪、さらにもう一人は髪を後ろで束ねている。幼児の背丈ほどの高さの牙に取りついて、腰を落とし、体重をかけるようにぐいぐいと押す。よいしょ。どっこいしょ。
「いや、それが……」と修司が口ごもると、
「スーツでも大丈夫だよ」と気安く岩田が応じた。
「わたしは職務上、押すわけには……」
「職務でなくて個人の行動として、やったらいいっちゃ。わたしらもボランティアだから。なっ?」
なっ? と言われても……。
「まずは事実確認を進めてまいりますので、すみません」と修司は気弱に言った。
すると、パーマ頭の老婆が牙を抱えたまま振り向いた。その射るようなまなざしに、修司はたじろいだ。
単行本 : 『大観音の傾き』中央公論新社、二〇二四年十二月
[単行本の詳細]https://www.chuko.co.jp/…
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[作者による冒頭朗読]https://youtube.com/…
掲載紙 : 『河北新報』二〇二四年四月七日〜九月二十九日、毎週日曜朝刊
[掲載紙の詳細]https://kahoku.news/…
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