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未知へと向かう旅の航跡
——『ハテラス船長の航海と冒険』(ジュール・ヴェルヌ著、荒原邦博訳)書評

 書き出しからして、さりげなくも不穏さが漂っている。
「明日の干潮時、二本マストの小帆船(ブリッグ)フォワード号は、K・Z船長、リチャード・シャンドン副船長の下、ニュー・プリンス・ドックから行き先不明のまま出港の予定」
 これは新聞に出た告知文だという。行き先不明のまま、とはどういうことか。K・Z船長とイニシャルになっているけれど、題名のとおり「ハテラス船長」ならば、Hではないのか。K・Z船長は手紙で指令を送ってくるだけで、姿を見せることがない。行き先も不明なら、主人公の存在すらも不明なまま、船はリヴァプールの港から出帆する。旅というのが未知のものへのあこがれ、好奇心、探究心に突き動かされて始まるものであるならば、この航海は大きな未知をはらんだ究極の旅といってもいいだろう。
 いつしか船長は姿を現し、目指すところも明らかになってくる。ハテラス船長は北を目指して進み、「北極点を発見する栄誉を祖国イギリスに」もたらすことをもくろんでいる。氷に閉ざされて限られる進路、迫りくる氷山、厳しい寒さ、食料不足、燃料の払底、仲間割れ、船の喪失、アメリカ人のライバル、クマたちによる襲撃……、困難が次々に降りかかる。だが、小説の言葉はいたずらな悲観に陥らず、絶えず活路を、苦境に対するべつの見方を探っている。
 たとえばこんな場面がある。極地での越冬中に、船長を含めた数名で狩りに出かける。食料を獲得する必要があった。そんなとき、「自分から撃ってくれとばかりにやって来る生き物はまだ一匹もいなかったので、狩りは遠足に変わってしまうおそれがあった」という一文が現れる。「自分から撃ってくれとばかりにやって来る生き物」という表現もユーモラスだけれど、それにも増して文の後半での認識の転換に心を打たれた。狩りの成果が得られないことを「遠足に変わってしまう」ととらえた時点で、すでに苦難はなかば乗り越えられつつあったのだ。実際このあと、狩りはすばらしい遠足へと一変することになる。
 目指すは北極点だというのだけれど、果たしてそこはいかなる場所なのか。現代でもなお、未知のベールに包まれたところがある。十九世紀なかば、人類未到の地であった作品発表当時なら、いっそうベールは厚かったろう。未知の地点へと向かうこの旅は、未知のものを既知にしてゆく過程なのだろうか。小説中で、さまざまな可能性が取り沙汰される。分厚い氷が張っているのか、無氷の海が見いだされるのか、もしかすると陸地があるのか。あるいは、北極点に深い穴が空いている? そこに火山があって、噴火口がひらいていたとしたら……。現代の読者が漠然と、北極点とはおおよそこんなところであろう、と思い浮かべるような地点にたどり着くことは決してない。ハテラス船長が正気を失ってまで行き着かなければならなかった北極点とは、どんなところだったのか。これは未知から既知に至る過程ではなく、未知からさらなる未知へとひらかれてゆく旅路であった。
 この長きにわたる船旅で重要な役目を果たしている人物として、ドクター・クロボニーがいる。ハテラス船長が果敢なる行動の人であるとすれば、クロボニーは穏やかな認識の人ということになるだろう。クロボニーの該博な知識と朗らかな気質とがあいまって、旅の仲間たちを、さらには読み手を鼓舞してくれる。「これは危険な航海だ。だが結局、こんなことを企てた以上、危険は予想していたのだから、驚くべきことなど何もない」とクロボニーは語る。そしてあるとき、「ドクターは航海メモを整理していたが、この物語はそれを忠実に再現したものである」という叙述が差し挟まれる。読者が読んでいるのが「この物語」だとするならば、ドクター・クロボニーの認識の力は作中の隅々にまで及んでいて、危険な航海を前へと進める原動力になっているのだろう。
 ときおりちらりと登場しては確かな存在感を放ちつづけていたのは、グレートデン種の犬のドゥックだ。当初は犬船長などとも呼ばれながら、旅の一部始終に同行し、本当にもうひとりの船長だったのではないかとも思わせる。出港に先立って船内に積み込まれた保存食の数々には、興味と食欲をそそられた。長い旅路を支える貴重な栄養源であったに違いない。読み手には保存食に代えて、小説に染みわたった言葉の滋養が供されている。
 この小説は、第一部「北極のイギリス人」と第二部「氷の砂漠」に大きく分かれ、第一部が三十二章、第二部が二十七章から成っている。大部の作品でありながら、一気に読ませるだけの吸引力がある。けれど、一日一章、夜寝るまえに少しずつゆっくりと読み進めてみるのもよさそうだ。北極圏の話ゆえ、冬のさなかの元旦に読みはじめれば、一月のうちに第一部がほぼ終わり、二月のすえに結末を迎えることになる。
 ふだんの暮らしのなかで、旅に出たいと思っても、なかなか準備が整わず、あるいは状況がそれを許さず、狭い生活圏から足を踏み出せない日々が続くこともある。けれど、この本をひらけば旅は始まる。ジュール・ヴェルヌは、大胆さと粘り強さを併せ持った言葉の冒険家にほかならない。その航跡を追って船を出せば、心躍る旅の時間が流れはじめる。


掲載紙 : 『図書新聞』二〇二一年十月二十三日号(十六日発売)
[掲載紙の詳細]http://www.toshoshimbun.com/…
[電子版]https://www.shimbun-online.com/…

書評した本 : 『ハテラス船長の航海と冒険』ジュール・ヴェルヌ著、荒原邦博訳、石橋正孝解説、インスクリプト刊、二〇二一年六月
[本の詳細]https://inscript.co.jp/…

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