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幻のマフラー

 誕生日のプレゼントに、マフラーをもらったことがある。僕はそれを幻のマフラーと呼ぶ。短いあいだだけ、僕の首まわりに寄り添ってくれた。そしてふっつりと姿を消してしまった。
 僕が三十歳になる一年まえのことだった。新宿のレストランで、恋人に差し出された紙包みをガサガサとあけると、マフラーが姿を見せた。青空にほんの少し、レモン色の水彩絵の具を溶かしたような色をしていた。あるいは南米のジャングルに、こんな色の輝く羽をもったチョウがいるんじゃなかったか。
 僕は礼を述べてから、
「これって、何色っていうのかな」と尋ねてみた。
「ターコイズブルー、だと思う」と彼女が答えた。
「ターコイズとは?」と僕は問いを重ねた。
「そういう宝石があるんだよ」
 僕がそのとき着ていたのは、黒のタートルネックのセーターだった。当時、僕はよく黒やグレーの服を身にまとっていた。それは、都会暮らしの保護色だった。アスファルトの路面を踏んで、コンクリートの建物のかたわらを、スーツ姿で行き交う人々……。街を構成する多くのものが、グレーの濃淡から成っていた。僕はそんな風景に紛れて、なるべく目立たない装いで静かに日々を送っていた。鼠色のスーツを着てぼーっと街角に突っ立っているとき、ひょろ長い体型と相まって、まるで電信柱みたいだと自覚することさえあった。
 そんな僕に、宝石の色をしたマフラーを? 似合わなかったらどうしよう。一抹の不安をいだきつつ、レストランからの帰り道、僕はマフラーを巻いてみた。自分で買いに行ったら、きっと選ばなかったであろう色のマフラー。それを身に着けて歩いていると、きのうまでとは違った自分が突如として殻を破って出てきたみたいで、落ち着かなくもあり、新鮮でもあった。おずおずと彼女に横目を向けると、やわらかな笑顔を返してくれた。彼女が言うには、僕の紺色のカバンなどを見て、青だったらもっと明るい色も合うのでは、と思ったのだそうだ。
 地味な色をした僕に、新しい色を塗り足してくれた、特別なプレゼントだった。それなのに、このマフラーをなくしてしまうことになる。
 僕の住んでいた古ぼけたアパートには、バランス釜という着火方式の小さな風呂がついていた。けれど窮屈なので、ときどき銭湯に行くのがささやかな楽しみとなっていた。あるとき、銭湯から上がって服を着ていたところ、彼女から携帯に着信があり、話しながら帰宅した。マフラーを脱衣所に置き忘れてきたらしいと気づいたのは、翌朝、会社に出かけようとしたときだった。
 仕事を終えて銭湯に行き、マフラーのことを番台の人に尋ねてみたけれど、届いていないという。僕は途方に暮れた。これから冬本番を迎えるというのに。今度、彼女と会うとき、どうしたらいいのだろう。あのマフラーをしていないというのは不自然じゃないか。これはもう、正直に話すしかあるまい。
「ごめん、弁償する」
 と僕は言った。自分がもらったものを弁償するというのも、妙な話ではあったけれど。彼女はそれほど怒りはしなかった。なくすなんて、いかにもそんなことをしそう、と納得しながらあきれていた。
 連れ立ってデパートに出かけた。僕はあのターコイズブルーのマフラーを気に入っていた。同じものが、あるだろうか。ところが彼女はこう言った。
「なくしたのとおんなじのを買うなんて、つまんないじゃない?」
 それもそうだ、と僕は思った。選ぶところに楽しさがあるのだとしたら、そこからもう一度やり直すのも手だ。彼女が選んでくれたのは、まえのとはまったく違ったものだった。オレンジに黄色、水色、茶色、深緑と、さまざまな色のストライプ柄で、全体に暖かみのある落ち着いた色合いだった。前回のものがなめらかな手触りの生地だったのに対し、今回のは縞模様に沿って編み目のおうとつがくっきりと出ていた。
 こうして僕はまた別の色をまとうことになった。自分に似合う色。それを自分自身で決めなくたっていい。新しい色に出会わせてくれる人がいる。そのことが、うれしかった。
 プレゼントとして無難なのは、相手の希望を事前に聞いて、そのとおりの物を贈ることだろう。そうでない場合、贈り物は賭けとなる。とりわけ、相手がまだほしいと思ったことのない何かを贈るときには。僕もそんな賭けの贈り物をしてみたいと思った。そのためには、相手に思いをめぐらす時間が必要になる。相手自身もまだ知らない、未来の相手の姿を想像する。一つの品物にたどり着くまでの想像の時間もまた、形としては見えないけれど、相手に向けた贈り物なのではないだろうか。
 二度目のマフラーは、僕の手元に残っている。幻のマフラーのほうは記憶のなかにしかないけれど、十数年が経ったいまでも、ふとした折に思い出すことがある。

掲載誌 : 『UOMO』二〇二〇年一月号(二〇一九年十一月二十五日発売)
特集「僕らが本当に贈りたくなったもの」のなかに掲載
[掲載誌の詳細]https://www.amazon.co.jp/…

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