道化の華の読書会
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三十年まえの黒い表紙の手帳が手元にある。東大駒場キャンパスの生協で買い、ズボンのポケットに入れて持ち歩いていたものだ。ひらいてみると、文学研究会の新歓コンパに参加したのは一九九四年四月十八日、月曜日の夜だったことがわかる。キャンパスの裏門を出て渋谷まで歩き、ちとせ会館にある居酒屋で飲み食いをしたという記憶がおぼろげながらよみがえってくる。文研のほかにバックギャモン研究会と民族音楽愛好会にも入っており、三つ目のサークルだった。
初めての読書会は新歓コンパと同じ週の金曜日、取り上げられた作品は太宰治の「道化の華」だった。手帳にはカギ括弧つきで〈「道化の華をやった」〉と書いてある。〈「道化の華」をやった〉ではないのか。カギ括弧を閉じるべきところで閉じそこなっているようにも見えるのだけれど、四月二十二日に駒下のZIZIといういまはない喫茶店で催された読書会そのものが、一つの作品だったのかもしれないと思えてくる。
高校時代に太宰治に傾倒していた僕にとって、「道化の華」の吸引力はきわめて強いものだった。読書会で何を話したのか、つまびらかには思い出せないけれど、夢中になって僕は語り、高井戸のアパートに帰ってから、自己嫌悪にまみれてぐったりとして布団に横たわることになった。
書棚から新潮文庫『晩年』を取り出して、すっかり茶色じみたページをめくり、久しぶりに「道化の華」を読み返す。銀座のバーで知り合った女と心中を試み、江の島付近の海に飛び降りながらも自分だけ助かった男が療養院で過ごした数日間が描かれている。主人公の名は、のちに書かれる「人間失格」と同じく大庭葉蔵。そして小説を書く「僕」も登場し、書く者と書かれる者の自意識が合わせ鏡のように響き合いながら、小説の言葉が繰り出されてゆく。これは、重苦しい鬱屈を抱えながら小説を書くことでどうにか光明を見いだしたいと願っていた若いころの僕の心にひたひたと迫り、染み入ってくるものだったに相違ない。〈ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ〉などと作中の「僕」がだしぬけに語りかけてくるのもたまらない。読み手の僕は、書き手の「僕」に遠慮もなく距離を縮められ、僕は「僕」の唯一の理解者であり、「僕」もまた僕の無二の理解者であるかのような奇怪な一体化の境地へと誘い込まれて、心中へと至る人の狂気にも近づいてくる。〈夢より醒め、僕はこの数行を読みかえし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰きわまったり〉という「僕」の感慨は、そのまま僕の感慨でもある。
あのころから僕は正気を取り戻すことなく、夢とうつつのはざまで、「道化の華をやった」という作品の続きの世界をさまよいながら、小説を書きつづけている。それはむしろ、道化の華にやられた、ということの帰結のようにも思われる。
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三十年まえの黒い表紙の手帳が手元にある。東大駒場キャンパスの生協で買い、ズボンのポケットに入れて持ち歩いていたものだ。ひらいてみると、文学研究会の新歓コンパに参加したのは一九九四年四月十八日、月曜日の夜だったことがわかる。キャンパスの裏門を出て渋谷まで歩き、ちとせ会館にある居酒屋で飲み食いをしたという記憶がおぼろげながらよみがえってくる。文研のほかにバックギャモン研究会と民族音楽愛好会にも入っており、三つ目のサークルだった。
初めての読書会は新歓コンパと同じ週の金曜日、取り上げられた作品は太宰治の「道化の華」だった。手帳にはカギ括弧つきで〈「道化の華をやった」〉と書いてある。〈「道化の華」をやった〉ではないのか。カギ括弧を閉じるべきところで閉じそこなっているようにも見えるのだけれど、四月二十二日に駒下のZIZIといういまはない喫茶店で催された読書会そのものが、一つの作品だったのかもしれないと思えてくる。
高校時代に太宰治に傾倒していた僕にとって、「道化の華」の吸引力はきわめて強いものだった。読書会で何を話したのか、つまびらかには思い出せないけれど、夢中になって僕は語り、高井戸のアパートに帰ってから、自己嫌悪にまみれてぐったりとして布団に横たわることになった。
書棚から新潮文庫『晩年』を取り出して、すっかり茶色じみたページをめくり、久しぶりに「道化の華」を読み返す。銀座のバーで知り合った女と心中を試み、江の島付近の海に飛び降りながらも自分だけ助かった男が療養院で過ごした数日間が描かれている。主人公の名は、のちに書かれる「人間失格」と同じく大庭葉蔵。そして小説を書く「僕」も登場し、書く者と書かれる者の自意識が合わせ鏡のように響き合いながら、小説の言葉が繰り出されてゆく。これは、重苦しい鬱屈を抱えながら小説を書くことでどうにか光明を見いだしたいと願っていた若いころの僕の心にひたひたと迫り、染み入ってくるものだったに相違ない。〈ところで、君、そんなふうの小説を書いてみないか。どうだ〉などと作中の「僕」がだしぬけに語りかけてくるのもたまらない。読み手の僕は、書き手の「僕」に遠慮もなく距離を縮められ、僕は「僕」の唯一の理解者であり、「僕」もまた僕の無二の理解者であるかのような奇怪な一体化の境地へと誘い込まれて、心中へと至る人の狂気にも近づいてくる。〈夢より醒め、僕はこの数行を読みかえし、その醜さといやらしさに、消えもいりたい思いをする。やれやれ、大仰きわまったり〉という「僕」の感慨は、そのまま僕の感慨でもある。
あのころから僕は正気を取り戻すことなく、夢とうつつのはざまで、「道化の華をやった」という作品の続きの世界をさまよいながら、小説を書きつづけている。それはむしろ、道化の華にやられた、ということの帰結のようにも思われる。
