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いつか深い穴に落ちるまで (冒頭)

 発案者は、運輸省の若手官僚、山本清晴だった。
 日本とブラジルとを直線で結ぶことはできないか。そう彼は考えた。カウンターテーブルには、飲み干された焼酎のコップと、皿に残った数本の竹串。
 発案に至るまで、妙な言葉の連なりが、脳裏をぐるぐるとめぐっていた。
 
 底のない穴を空けよう。
 肉のかたまりに、串を刺す。
 すると、底のない穴ができる。
 地球にだって、それはできる。
 土のかたまりに、底のない穴。
 できるはずだが、串はどこにある?
 
 そして突然、新しい事業の種がこぼれ落ちたのだ。地球に突き刺す串がどこにあるのかは、追い追い探ってゆけばよいだろう。困難な道のりが始まるとも思わず、彼は楽観的だった。
 会計を済ませてやきとり屋を出ると、夜空をうっすらと覆った雲を透かして、光の強い星がいくつか、点々と姿を見せていた。沿道には、波形のトタンや黒ずんだ木材をミノムシのように継ぎ合わせてできた窮屈なバラックが建ち並び、闇市をかたちづくっている。一九四五年の敗戦から、まだ幾年と経っていなかった。
 中国大陸から東南アジア、太平洋の島々を戦場としながら永く続いた戦争の末年、陸軍記念日であった三月十日の未明に、東京は米軍機による大がかりな空襲に見舞われた。地表は赤く燃え、そして一面、黒々と焼けただれた。自身、東京に居合わせなかったあの夜のことを思うと、山本は言い知れぬ痛苦を覚えずにはいなかった。木造家屋の密集した下町で、無数に撒かれた焼夷弾が爆発とともに油脂を飛び散らかして猛威を振るい、五ヶ月のちに原子爆弾の投下される広島と長崎にも並ぶほど大勢の死者が出た。おびただしい亡きがらが、都内各所の寺院や公園、空き地に仮埋葬された。やがて、焼け残った桜の木々から、ほのかに赤みを帯びた白い花弁がひらいて、生き延びた人々の目をつかのま惹きつけ、静かに散っていった。東京の街に焼夷弾が降ったのはあの夜だけではなかったし、日々、全国のあちこちの街が空襲で焼かれていた。沖縄は、激しい地上戦の惨禍にさらされた。
 竹槍によってでも戦い抜くことが唱道された戦時体制は、国内外で多大な犠牲を生んだすえに瓦解した。現人神あらひとがみと呼ばれた昭和天皇は人間宣言をし、鬼畜米英と呼ばれた敵国人たちもまた人間となった。進駐軍の若い米兵たちは、爆弾でもなければ機銃掃射の弾丸でもなく、子供たちにチョコレートをくれた。身元不明のままやむなく何十体とまとめて大きな穴に埋められていた大空襲時の亡きがらたちは、掘り出されて火葬に付されていったけれど、忘れ去られたまま仮埋葬の地から仮の字がうやむやに消えてゆくこともあった。焼け跡には、人々の生活の場がしぶとくよみがえり、おおやけの配給物資だけではとうていまかないきれぬ需要を満たす闇市が、各地でにぎわいを呼んでいた。
 新橋の闇市の横丁を、安酒に顔を赤らめた人々が、ひしめきながら往来している。その一人として道を行く山本が、さきほどまでちびちびと飲んでいたのはカストリと呼ばれる粗悪な焼酎だった。工業用アルコールを用いたバクダンなる代物も流布していたものの、こちらには手を出さぬようにしていた。しばしばメタノールが混入しており、その毒気に当てられて死者も出ていた。戦火をくぐり抜けた果てにアルコールのバクダンにたおれては元も子もないとの自制心が、山本に働いていた。生き残った自分には、なさねばならぬことがあるはずだ。それは何か。さっき、はっきりとつかんだ気がした。山本は、胸のうちにともったひらめきのを、酔いの醒めるとともに消さぬようにと念じつつ、人混みに交じって一歩一歩、地面の存在を確かめるような足取りで夜の細道を踏みしめていった。
 翌日、彼は上司に話を持ちかけた。我が国の大地に、ブラジルへと続く、底のない穴を空けましょう、と。
「なぜ、そんな穴を?」
 上司の田中が尋ねた。
「だって、近道じゃありませんか」と当然のことのように山本が言った。「船でブラジルまで行くのに何日かかるんです?」
「そうは言うが、君は知っているのか。日本から真下に穴を掘っていったら、そこはブラジルじゃない。ブラジルの近くの海底にぶち当たるんだぞ」
「つまり、大西洋の海水で我が国土が水浸しになる、と? でしたら、中心を少し外して掘っていけばいいんです」
 熱を帯びながらたたみかけてくる青年の口ぶりに押されるように、田中は言った。
「資源も何もない国で、何もない穴を掘ってそれが一大事業になるのなら、けっこうなことかもしれないが……」
 そもそも、平和の時代に興すべき新事業の計画がいま求められているのだと、若い山本を焚きつけたのは田中だった。山本は法科の学生のときに戦局悪化の状況下で学徒出陣の隊列に加えられたが、出撃に備えた訓練に従事するうち敗戦を迎え、役所に勤めはじめたのだった。田中にしてみれば、戦時には戦時の職責を、平時には平時の職責を忠実に果たすのが官吏の務めであって、かつて鉄道省時代に南満州鉄道を管轄する業務に就いていたころをなつかしむ気持ちもすでに薄れて、狭い国土のどこに鉄路を敷くのがよかろうと頭を悩ませていたところだった。そんな田中の求めに対し、山本は意想外の企画をもって応えた。山本にとっては、単なる平時の職務を超えて、落としそびれたみずからの命の活かしどころと受け止められていたに違いなかった。


単行本 : 『いつか深い穴に落ちるまで』河出書房新社、二〇一八年(十一月十六日発売)
[単行本の詳細]https://www.kawade.co.jp/…
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掲載誌 : 『文藝』二〇一八年冬号(十月六日発売)
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[作者による冒頭朗読]https://www.youtube.com/…

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