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2014年9月20日の記事

佇む女と佇む男と

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140919郊遊

 台湾映画『郊遊〈ピクニック〉』(蔡明亮監督)は、動きのありそうな題名とは裏腹に、奇妙なほど辛抱強く、固定ショットの長回しで一つ一つの場面を構成し、人物も単調な動作を繰り返していたり、じっとしていたりして、台詞も極端に少ない。そんな切り詰められた表現のなかで、人物が強い存在感を放っていた。
 冒頭場面では、後景で子供たちが眠っているなか、顔面を長い髪ですっかりうずめた女が延々と櫛を使い、ときどき髪のあいまに顔を覗かせる様子が延々と映し出される。このいつ果てるともない反復動作のはざまに、倦怠とも悲哀ともつかない女の表情がほの見える。
 主人公は、高級住宅販売の立て看板を持って道路の中央分離帯に佇む中年男。絶え間ない車の流れに囲まれて、男は薄いビニールのカッパをまとい、吹きすさぶ風雨にさらされながら、ひたすら立ち続けている。その虚無に耐えることが仕事だというかのように。高級住宅をPRしながら、この男が住むのは無人の廃墟めいた建物の一角で、ここで少年一人、少女一人の子供たちとともに蚊帳を吊って寝ている。
 子供たちが、キャベツに顔を描いて人形のようにして寝床に寝かせておいた。これに気づいた男が突然、キャベツに布をかぶせて窒息させようとし、キャベツの目玉を突き、キャベツの口に噛みつき、キャベツの皮を引きちぎる。キャベツとの奇妙な格闘が、男の行き場のない鬱屈を浮かび上がらせる。
 男と子供二人は、大雨の夜に出会ったある女のもとに身を寄せることになる。冒頭場面の女と、途中に出てきて少女に関心を寄せるスーパー店員の女、そして大雨の夜の女は、別々の女優が演じているようなのだが、たたえている寂しさと子供への関心という点で一貫していて、どこか別の姿をとった一人の女であるかのようだ。
 身を寄せた女の家には風呂場もマッサージチェアもあるが、壁は廃墟以上に廃墟めいたでこぼこの鼠色をしている。家も病気になることがある、と女が少女に説く。壊れた居住空間は壊れた関係の写し絵のようでもある。男女二人が子供二人と同じ屋根のしたに集ってみても、そこに疑似夫婦のような心の結びつきが生まれたわけではなかった。
 廃墟のなかの広場めいた空間に、女が佇み、少し離れた斜め後ろに男が佇む最後の場面。驚異的な持続力で、この二人の立ち尽くす場面が続いていく。この男女がそれぞれどんな人生を歩んできて、どんな傷を負っていまこの場に立っているのか、観る者はごく断片的にしか、いや、ほとんど知らないといっていい。にもかかわらず、女が埋めがたい欠落を抱えて孤立していること、男が手を差し伸べようとしてその困難さに立ちすくんでいることが、二人のたたずまいから否応なく伝わってくる。その時間、その空間を取り巻いて、台北の街を行き交う車の喧噪が絶えず聞こえてきていて、非情にして日常の世界の手触りが感じられるようだった。
 渋谷のイメージフォーラムにて。




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