ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を観た。
画家で教授の主人公ストゥシェミンスキには片足がなく、松葉杖をついている。草原で絵を描いている学生たちのところへ、彼はいかにしてやってくるのか。松葉杖を抱いて草原に横たわり、なだらかな坂を転がり降りてくるのだ。不自由な体を自由な心で包み込むようにして、彼は生きてきたのだろう。車座になった学生たちに、彼は残像について語る。残像は、ものを見たときに目のなかに残る色。その色は、見ていたものの補色になっているのだ、と。
あるとき、アトリエで絵を描こうとしていた彼のキャンパスに、不思議なことが起こる。まだ真っ白だったキャンパスが、突如として赤に染まる。怪奇現象でもなければ幻覚でもない。第二次大戦後のポーランドに絶大な影響力を持ったソ連の指導者像を描き込んだ赤い垂れ幕が、ビルの屋上から垂らされた。それによって窓をふさがれ、差し込んできていた陽光が赤に変じたのだ。窓をあけ、垂れ幕を切り裂くストゥシェミンスキ。彼にとって、それは絵を描くうえで邪魔なものでしかなかった。物理的に光の色を変えてしまっただけでなく、思想的にも光の色を変え、事物の捉えかたを規定してしまうものだったから。
ストゥシェミンスキの勤める大学を文化大臣が訪れ、社会主義リアリズム推進の方針を打ち出す演説をした。ストゥシェミンスキはそれに異を唱える。彼にとって、芸術の可能性を政治的な教化手段として狭めてしまうことは認めがたいことだった。その結果、彼は大学を追われ、芸術家団体の会員資格を失い、どうにかありついた広告ポスターを描く仕事も奪われ、画材を買うことさえ許されなくなる。
単色に染め上げられ、異論が認められなくなってしまった社会のなかで追い詰められ、倒れ伏すストゥシェミンスキ。だが、彼の心のなかには赤の補色としての緑が、自由に転がり降りて学生と語り合った草原の残像が、いつでも広がっていたのかもしれない。
妻、娘、そして女学生と、彼を取り巻く女性たちの存在も陰影に富む。彼女たちがストゥシェミンスキに惹かれたのも、そして去らざるをえなかったのも、彼がひたすら絵を描くことに没頭し、それ以外のものは失ってもしかたがないというかのごとき姿勢だったためではないか。彼にとって絵を描くことだけが、最期まで踏み外そうとしなかった、自由へと続く果てしのない道筋だったに違いない。
「イタリア映画祭2017」の一環として上映された『幸せな時はもうすぐやって来る』(アレッサンドロ・コモディン監督)を観た。
夜の闇のなか、何かから逃れるように、二人の若者たちが山林を疾走している。彼らは山中で無邪気に日々を過ごすうち、深い穴を見つけたり、水浴びをしたり、即席のワナをこしらえてウサギを仕留めたり、銃声を聞いて男がたおれている現場に出くわしたりする。そして二人の若者たちも、不意に銃で撃たれてたおれる。
続いて、付近の村人たちがオオカミの伝説を語る場面が挿入される。オオカミが美しい牝鹿に惹かれたが、思いが実らないと、代わりに人間の女を探し歩いたという。
その伝説の山林へと、若い女性が分け入ってゆく。彼女は穴を見つけ、そこをくぐって水辺に出る。水浴びをしていると、若者が一人現れる。彼女は若者と親密になったのち、仕留められた獲物のように、若者に運ばれてゆく。山林には、銃を持ったオオカミ狩りの男たちが入ってゆく。
最後に、若者は刑務所にいる。そこへ面会に来たのは、あの若い女性のようだった。
ストーリーのようなものは断片にまで寸断されていて、つなぎ合わせようとしても随所で矛盾に逢着する。むしろこの映画は、モチーフが変容しながら反復されることで展開してゆくように思われる。大きな流れとしては、「二人の若者」から「オオカミと牝鹿」へ、そして「若者と女性」へという二人組の変容があるだろう。映画の前半部では、「仕留められて腹を切り裂かれたウサギの死骸」から「銃で仕留められた男の死骸」へ、そして「二人の若者たちの死骸」へという連鎖のなかで若者たちの運命が決着する。また、冒頭の「闇夜を疾走する若者たちの衣服が青白く浮かび上がる場面」は、終盤で「オオカミ狩りにやってきた男たちのジャケットが暗闇でオレンジ色に輝く場面」に照り返されて、追われているオオカミとは、あの二人の若者たちのことではないかと気づかされる。
観終えた映画をこうして思い返していると、僕自身もあの山林の奥深くにさまよい込んでしまったような奇妙な心地になってくる。
台湾映画『郊遊〈ピクニック〉』(蔡明亮監督)は、動きのありそうな題名とは裏腹に、奇妙なほど辛抱強く、固定ショットの長回しで一つ一つの場面を構成し、人物も単調な動作を繰り返していたり、じっとしていたりして、台詞も極端に少ない。そんな切り詰められた表現のなかで、人物が強い存在感を放っていた。
冒頭場面では、後景で子供たちが眠っているなか、顔面を長い髪ですっかりうずめた女が延々と櫛を使い、ときどき髪のあいまに顔を覗かせる様子が延々と映し出される。このいつ果てるともない反復動作のはざまに、倦怠とも悲哀ともつかない女の表情がほの見える。
主人公は、高級住宅販売の立て看板を持って道路の中央分離帯に佇む中年男。絶え間ない車の流れに囲まれて、男は薄いビニールのカッパをまとい、吹きすさぶ風雨にさらされながら、ひたすら立ち続けている。その虚無に耐えることが仕事だというかのように。高級住宅をPRしながら、この男が住むのは無人の廃墟めいた建物の一角で、ここで少年一人、少女一人の子供たちとともに蚊帳を吊って寝ている。
子供たちが、キャベツに顔を描いて人形のようにして寝床に寝かせておいた。これに気づいた男が突然、キャベツに布をかぶせて窒息させようとし、キャベツの目玉を突き、キャベツの口に噛みつき、キャベツの皮を引きちぎる。キャベツとの奇妙な格闘が、男の行き場のない鬱屈を浮かび上がらせる。
男と子供二人は、大雨の夜に出会ったある女のもとに身を寄せることになる。冒頭場面の女と、途中に出てきて少女に関心を寄せるスーパー店員の女、そして大雨の夜の女は、別々の女優が演じているようなのだが、たたえている寂しさと子供への関心という点で一貫していて、どこか別の姿をとった一人の女であるかのようだ。
身を寄せた女の家には風呂場もマッサージチェアもあるが、壁は廃墟以上に廃墟めいたでこぼこの鼠色をしている。家も病気になることがある、と女が少女に説く。壊れた居住空間は壊れた関係の写し絵のようでもある。男女二人が子供二人と同じ屋根のしたに集ってみても、そこに疑似夫婦のような心の結びつきが生まれたわけではなかった。
廃墟のなかの広場めいた空間に、女が佇み、少し離れた斜め後ろに男が佇む最後の場面。驚異的な持続力で、この二人の立ち尽くす場面が続いていく。この男女がそれぞれどんな人生を歩んできて、どんな傷を負っていまこの場に立っているのか、観る者はごく断片的にしか、いや、ほとんど知らないといっていい。にもかかわらず、女が埋めがたい欠落を抱えて孤立していること、男が手を差し伸べようとしてその困難さに立ちすくんでいることが、二人のたたずまいから否応なく伝わってくる。その時間、その空間を取り巻いて、台北の街を行き交う車の喧噪が絶えず聞こえてきていて、非情にして日常の世界の手触りが感じられるようだった。
渋谷のイメージフォーラムにて。
自己を肯定できず、居場所もないように感じつつ、空想上の存在との結びつきを通してどうにか心を保ち、生き延びてゆく。そんな時期を経験した人は、少なからずいるのかもしれない。それは心の内側でひっそりと営まれるものであるがゆえに表立って語られにくいものだが、ときおりフィクションのモチーフとしてひょっこり姿を見せることがある。米林宏昌監督の『思い出のマーニー』もまた、「空想上の親友」をモチーフにした映画だといえるだろう。
自分という存在がこの世界から受け入れられていると感じられず、孤立している中学生の女の子、杏奈。彼女はぜんそくの療養のため、札幌の養父母のもとを離れ、道内の小さな街に転地する。入り江の岸辺に建っている打ち捨てられた洋館で、杏奈は金髪の少女マーニーに出会う。
杏奈とマーニーは、家族から、世界からこぼれ落ちてしまった者どうし、互いを認め、支え合う。果たしてマーニーとは、孤独な杏奈が生み出した空想上の存在だったのだろうか。だが、この空想めいた存在には現実的な種があった。かつて幼子だったころ、杏奈を受け入れてくれた人が、現実に存在していた。その失われた記憶への接近により、彼女はふたたび現実の世界へと結びついてゆく。
転地療養の受け入れ先の家で、二階の窓をあけたときに広がる海と陸地のパノラマ。杏奈とマーニーが入り江を小舟で渡るとき、夜空にかかっている月。カラフルで日当たりのよい、お昼寝どきの杏奈の部屋。この映画には、観ているだけで心を波立たせてくれる光景がいくつもあった。
赤坂ACTシアターにて、『ヴォイツェク』観劇。
ドイツの作家ゲオルク・ビューヒナーによって遺された戯曲原稿は断片の状態であり、それをつなぎ合わせて一本化したものも、いちおうの本筋はありながら、断片としての奇妙なおもしろさをもった場面が多い。つなぎ合わせかたも一通りではない。そんなテキストであるだけに、十九世紀初頭の作ながら前衛的な演出と親和するところもあるけれど、今回の舞台は落ち着いた演出であったように思う。
貧しい兵士ヴォイツェクには財産らしき財産もなく、大事なものといえば内縁の妻マリーと赤ん坊クリスティアンの存在のみ。忙しく駆け回り、妻子のもとでゆっくりする暇もない。尊大な大尉の髭を剃るヴォイツェクや、見世物小屋で見世物のように扱われるヴォイツェク、エンドウ豆だけを食べて尿を採られる実験台となったヴォイツェクなどの場面が挟まる。軍楽隊の鼓手長にマリーを寝取られたヴォイツェクは、がらくた売りからナイフを買って、湖の浅瀬でマリーを刺し殺し、自分も水のなかに沈んでゆく。しいたげられ、静かな狂気の内に幕を閉じる人生。
ヴォイツェク役の山本耕史とマリー役のマイコが美しく凛然としていて、特にヴォイツェクは本来もっとくすんだ感じの人間なのではないか、という気もするが、そうではない感じの人間によって演じられているところに妙味があったようにも感じる。この配役ゆえ、「劇場から裏町へ出て、現実の世界を見よ。舞台上のまがいものの世界になれきった連中は、現実を見て『なんて平凡なんだ』と叫ぶだろう」という趣旨(記憶によるため、正確な引用ではない)でなされる口上役の言葉が活きる(ちなみにこの台詞は原作にはなく、同じ作者の『ダントンの死』から移してきたようだ)。
音楽劇と銘打たれ、絶えず舞台脇のバンドの生演奏を伴って場面は進み、ときおり登場人物の歌唱が挟まる。なかでもヴォイツェクの狂気と倦怠のにおいをはらんだ曲が繰り返し歌われ、山本の張りのある歌声が際立っていた。演出・白井晃。
改めて思い返してみると、宮崎駿監督の映画では、主要人物たちがじつによく空を飛んでいる。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『紅の豚』……。新作『風立ちぬ』の主人公のモデルは、零戦の設計者である堀越二郎。もちろん、空を飛ばないはずがない。
冒頭、少年時代の二郎は、夢のなかで不思議な飛行機に乗って、広大な田園風景のなかを自在に飛びまわる。この疾走感、開放感が素晴らしい。
子供心にいだいた飛翔へのあこがれは、飛行機を設計することへと形を変えて、大人になって具現化する。薄紫色のジャケットを着て、なかなかしゃれたメガネ男子風の装いながら、仕事には一心不乱に取り組んでいく。大人になった二郎の、落ち着いていて少しそっけないくらいの声がよいなと感じて、そういえば庵野秀明が担当しているということだったと思い出し、二郎の丸メガネが一瞬、庵野監督のメガネ姿にオーバーラップして見えてしまった。
途中、堀辰雄の小説世界を彷彿させる、高原の避暑地で絵を描く女性との出会いの場面が挿入される。その女性、菜穂子との恋は静かに熟していき、彼女が結核を病んでいることを知ったうえで、結婚へと至る。
堀辰雄の『風立ちぬ』になくて、宮崎駿の『風立ちぬ』にあるもの。それは、「働く」ということののっぴきならなさではないかと思う。「風立ちぬ、いざ生きめやも(生きなければならぬ)」という、堀辰雄の『風立ちぬ』に引用され、宮崎作品でも再引用されたヴァレリーの詩句がある。堀作品にあって「生きること」とは「愛する人とともにあることの幸福を感じること」として純化され気味であるのに対し、宮崎作品にあって「生きること」とは「愛すること」であるとともに「働くこと」でもあり、両者が同じくらい重みを持ったものとして存在している。二郎が片手で病床の妻の手を握りながら、もう片方の手で設計の仕事にいそしむ夜中の場面がある。どこか滑稽でもある二郎の後ろ姿は、愛することと働くことの重みを等しく感じながら生きる姿そのもののようにも見えた。愛することの結末がどうなろうとも、働くことの結末がどうなろうとも、人は愛し、働かなければならないのだろう。
渋谷のシネパレスにて、北野武監督『アウトレイジ ビヨンド』を観た。
前作『アウトレイジ』での状況を引き継いだ設定になっているけれど、独立した一編としても観賞できる。本でも映画でも、タイトルに『2』と入っていると、ああこれは前作の続きなんだなという気分になってしまうが、『ビヨンド』というのはむしろ前作を踏み越えていくという意志が感じられて好もしい。
本作では、関東の一大暴力団勢力・山王会の内部での実権争いに関西の花菱会が絡んできて、両会の果てしなき抗争が続いてゆくさまが描かれる。野心だったり猜疑心だったり復讐心だったりとさまざまな負の激情を燃料として凄惨な殺戮が繰り広げられてゆくが、軽快なテンポでときに乾いたユーモアを交えつつ、組織というものがしばしば抱える権力闘争の実相を的確にえぐり出しているがゆえに、陰惨というよりむしろ爽快な印象すら受ける。殺戮というのを比喩的に捉えるならば、こういうことはさまざまな組織で日々密やかに勃発し、進展しているのではないか。政治の世界しかり、会社組織しかり……。
あまた描かれる人物のなかでも、まず、刑事の片岡(小日向文世)の個性に目を惹かれた。小物ぶっていながら実は全てを把握しているかのように裏で糸を引いていて、にやりとへりくだった笑顔を見せつつ本心では笑っていない表情に、妙な存在感が滲み出ている。この男が個々のヤクザに巧みに働きかけて、彼らの野心や猜疑心や復讐心に火をつけ、抗争を過熱させてゆく。片岡の口から「フィクサー」と呼ばれる韓国人のボスが出てくるが、この映画のなかで真のフィクサーといえるのはむしろ片岡のほうだ。暴力団組織につぶし合いをさせることで勢力の弱体化を図るという、ある種、反則的な方法で冷徹に職務を推し進めているようでもあり、その過程で起こる抗争をどこかおもしろがっているようでもあり、この成果によって警察組織内部での自らの出世を図ろうとしているかのようでもある。この突き抜けた卑劣漢ぶりがかえって小気味よい。
主人公の大友(ビートたけし)の存在感も別格である。彼もまた、片岡にうまいこと焚きつけられた一人ではある。だが、抗争にひたすら前のめりになってゆく他のヤクザたちとは異質な雰囲気がある。もう俺はいいよ、と言いたげな気だるい倦怠感をまといつつ、腐れ縁を絶てずに仇討ちの闘いに駆り出されてゆく。どこか冷めているようでありながら、大友にとってあえて守るに値するものがあるとすれば、それは人と人との信義であり、ヤクザの世界にもかつては底流していたはずの人情であるようだ。
ラストシーンで、仲間の葬式に姿を見せた大友に、丸腰で式場に入っては危ないからと片岡がお節介を焼くそぶりで拳銃を手渡す。その直後、くすんだ銃声が何発か響く。片岡がついにおのれの策略に裏切られ、大友がついにヤクザの真の敵への復讐を遂げた瞬間であった。
所用で訪ねたあるビルで、トイレに行ったら入り口に「Gentlemen」との表示があった。その珍しくもない光景をまえにして、ふと、他愛もない疑念が頭をよぎる。「Gentlemen」限定ということはジェントルでない粗野な男は入場できぬということで、それでは困る人もいるのではないか、と。しかし、ジェントルでない粗野な男とは、「Gentlemen」限定の表示があろうがおかまいなしに入ってしまうような男なのだろうから、けっきょく困る人もいないのだ、と腑に落ちた。この一連の自問自答のなかで、自分自身をちゃっかり「Gentlemen」の範疇に含めていたのが我ながら厚かましいところではある。
その夜、渋谷のユーロスペースに行き、アッバス・キアロスタミ監督が日本を舞台に撮った『ライク・サムワン・イン・ラブ』の上映最終日、最終回に滑り込んだ。この映画では、老いたジェントルマンと若い粗野な男が登場し、一人の女性を巡る騒動が展開する。
元大学教授で、いまは著述家として身を立てている老紳士の暮らす雑居ビルの三階に、夜、美しい女性が訪れる。彼女はどうやら派遣型風俗に類するアルバイトとしてやって来たらしい。雰囲気を出すために蝋燭で明かりを採り、彼女の出身地の名産であるという桜エビでだしを取ったスープなど用意していた老紳士だが、桜エビは食べられないのだと彼女の態度はつれない。背後に流れるジャズからは「like someone in love」のフレーズが聞こえる。翌朝、彼女を大学まで送っていった老紳士は、そこで彼女の恋人に出くわす。この若い男はDVの傾向があり、女性の行動を疑っている。老紳士は、彼女の祖父と誤解されるまま、若い男に落ち着き払った態度で人生を教え諭す。その日の午後、電話で助けを求められた老紳士は、殴られて路上にうずくまっていた彼女のもとへ車で駆けつけ、雑居ビルの自宅へ連れ帰る。老紳士が傷の手当てをしてやろうとしているところでインターホンが鳴り、若い男が追ってきたことがわかる。外で騒ぎ、老紳士を罵倒する若い男。うろたえる老紳士。窓ガラスをかち割られた瞬間、映画は突然の終わりを迎える。
あれっ、ここで終わるの、というのがそのときの率直な感想だった。老紳士と女性を襲った危機はいかに収束するのか。そのことについて映画はいさぎよいまでに何も語らず、ざわついた不安な気分が残る。まだまだ中盤から後半に差しかかったくらいかという感覚でいたのだが、実際には二時間近くが経過していた。作中の人と人とのやりとり――電話の音声でしか登場しない女性の祖母や老紳士の弟なども含めて――のずれ具合がめっぽうおもしろく、それだけのめり込んで観ていたということでもある。
不安の後で、僕の心に残ったのは、老紳士の姿の切なさである。余生にも近い穏やかな暮らしのなかで、若い女性を呼ぶような欲もある。ライク・サムワン・イン・ラブ――恋する者のように、彼は振る舞う。優しく、そしてぎこちなく、あくまで恋する者の「ように」。ところが終いには、彼は本物の色恋の修羅場のなかに突如として投げ出される。
アルバイトのことを隠していた女性も、行きがかり上祖父を演じた老紳士も、嘘をつくことのできる人々である。容姿に優れつつも暴力的な気性によって観る者に倫理的嫌悪感を催させる粗野な男は、他者の嘘を許すことのできない正直者である。彼の自動車修理会社での如才ない働きぶりと、恋人や彼の気に障る人々に対する凶暴さとの二面性は、少なくとも彼自身にとってはどちらも嘘ではない正当な振る舞いなのだろう。虚実の適切な制御によって平穏な日々を送ってきた老紳士の生活空間が、容赦ない現実の猛威によって食い破られた瞬間、窓ガラスの割れる音が響き、ひび割れは観客の意識にまで及んだのだ。
Bunkamuraル・シネマにて、イラン映画『別離』(アスガー・ファルハディ監督)を観た。
ある夫婦の離婚調停の場面から映画は始まる。妻シミンと夫ナデル、それぞれの言い分が早口にまくし立てられ、離婚は成立する。十一歳になる一人娘テルメーの親権の問題は未決着のまま持ち越されるが、ひとまず夫ナデルとともに家に残ることになる。
妻シミンが家を出るのを機に、認知症を患う夫の父親の介護のために女性が雇われる。その女性ラジエーが流産するという事件を巡って、映画は展開していく。
ナデルが、不誠実と見えたラジエーの勤務態度に怒ってマンションから追い出した。そのときにラジエーが階段に倒れ落ちたことが、流産の原因となったのか。十九週以上の胎児の死には殺人罪が適用されうる。ラジエーを妊婦と知っていながら突き飛ばしたのなら限りなくクロに近づく。ラジエーの夫は気が荒く、この事件にいきり立っている。形のうえでは離婚しながら、娘のことを思い、家に戻るつもりがないわけでもないシミンにとっても、ナデルが殺人の罪に問われていることは他人事ではない。
尋問が進み、さまざまな人物の証言がなされるにつれ、事件の真相の新たな可能性が、観る者の脳裏に次々と浮かび上がっては消えていく。各人物の発言が、真実であるのか嘘であるのか。嘘であるとしても、その嘘をつくだけの動機がほの見える。それぞれの人物が何かから逃れようとして、あるいは何かを守ろうとして、懸命に振る舞っている。
とりわけ健気なのが、離婚した夫婦の娘テルメーだ。少女ながらいつも冷静で聡明さを感じさせる彼女は、父であるナデルの発言の嘘を見破り、真実を話すべきだと勧める。だが、いざ自分が証人として呼ばれると、彼女自身も嘘をついてしまう。それは、父が罪を着せられることを避けるためであるとともに、そのさきに父と母の復縁があることを願ってのことだ。
けっきょく真相らしきものとして、ナデルの行為が原因だったわけではないということが明らかとなり、事件そのものは幕引きとなる。
しかし、まだ決着のついていない事案が残っている。テルメーの親権の問題だ。父と母、どちらのもとで暮らしていくのか。それを彼女自身が選択することになっている。調停者のまえで、もう決心はついていると彼女は告げる。だが、どちらを選んだのかは、なかなか言い出せない。そもそもどちらか一方を選ぶことが彼女の本当の望みではないことを、観客は知っている。にもかかわらず、彼女はいったいどちらを選んだのか。その答えは明かされぬまま、映画は終わる。少女の言いしれぬ悲しみが、観客である僕の心に重く残された。