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2017年7月28日の記事

目のなかに残る色

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 ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を観た。
 画家で教授の主人公ストゥシェミンスキには片足がなく、松葉杖をついている。草原で絵を描いている学生たちのところへ、彼はいかにしてやってくるのか。松葉杖を抱いて草原に横たわり、なだらかな坂を転がり降りてくるのだ。不自由な体を自由な心で包み込むようにして、彼は生きてきたのだろう。車座になった学生たちに、彼は残像について語る。残像は、ものを見たときに目のなかに残る色。その色は、見ていたものの補色になっているのだ、と。
 あるとき、アトリエで絵を描こうとしていた彼のキャンパスに、不思議なことが起こる。まだ真っ白だったキャンパスが、突如として赤に染まる。怪奇現象でもなければ幻覚でもない。第二次大戦後のポーランドに絶大な影響力を持ったソ連の指導者像を描き込んだ赤い垂れ幕が、ビルの屋上から垂らされた。それによって窓をふさがれ、差し込んできていた陽光が赤に変じたのだ。窓をあけ、垂れ幕を切り裂くストゥシェミンスキ。彼にとって、それは絵を描くうえで邪魔なものでしかなかった。物理的に光の色を変えてしまっただけでなく、思想的にも光の色を変え、事物の捉えかたを規定してしまうものだったから。
 ストゥシェミンスキの勤める大学を文化大臣が訪れ、社会主義リアリズム推進の方針を打ち出す演説をした。ストゥシェミンスキはそれに異を唱える。彼にとって、芸術の可能性を政治的な教化手段として狭めてしまうことは認めがたいことだった。その結果、彼は大学を追われ、芸術家団体の会員資格を失い、どうにかありついた広告ポスターを描く仕事も奪われ、画材を買うことさえ許されなくなる。
 単色に染め上げられ、異論が認められなくなってしまった社会のなかで追い詰められ、倒れ伏すストゥシェミンスキ。だが、彼の心のなかには赤の補色としての緑が、自由に転がり降りて学生と語り合った草原の残像が、いつでも広がっていたのかもしれない。
 妻、娘、そして女学生と、彼を取り巻く女性たちの存在も陰影に富む。彼女たちがストゥシェミンスキに惹かれたのも、そして去らざるをえなかったのも、彼がひたすら絵を描くことに没頭し、それ以外のものは失ってもしかたがないというかのごとき姿勢だったためではないか。彼にとって絵を描くことだけが、最期まで踏み外そうとしなかった、自由へと続く果てしのない道筋だったに違いない。




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