「心」と「言葉」のモンタージュ
シェイクスピア・作『から騒ぎ』観劇。
この劇、「心」と「言葉」を切り離してモンタージュする実験としての一面がありそうだ、と受け止めながら僕は観ていた。
「心」で感じたことや思ったことが「言葉」となって出てくる、というのは一見あたりまえのようなことである。たとえば、「好き」と感じる心によって、「好き」という言葉が口からこぼれる。このとき、心のほうが主体であって、言葉というのは心が押し出すボールのようなものだ。
けれどもこの劇を観ていると、本当は言葉のほうが主体であって、心というのは言葉によってあっちこっちへ突き動かされている頼りない存在に過ぎないように感じられてくる。
この劇では、「心の持ち主」と「言葉の使い手」とが切り離された状況が何通りか描かれる。つまり、「自分が思ったことを自分自身が言う」のではなくて、「自分が思ったことを他人が代わりに言う」とか、「自分が思ってもいないことを他人が代わりに言う」といった状況だ。
たとえば、クローディオはヒアローに恋をしているのだが、内気なクローディオ自身に成り代わってドン・ペドロが仮面舞踏会の場で恋の告白をおこない、ヒアローの心をとらえることに成功する。あるいは、ベネディックとビアトリスは、会えば互いに辛辣な皮肉を言い合う間柄で、どちらも恋愛や結婚には興味がないと公言しているのに、まわりの連中が二人を結びつけようと画策し、それぞれに相手から好かれていると思い込ませるような噂を流すことで二人の気持ちを動かし、実際に結びつけてしまう。もう一つ、クローディオとヒアローの関係を破綻させる陰謀を企てたアントーニオが、ヒアローの心を疑わせるようなデマをクローディオに信じ込ませ、仲を引き裂くということも起こる。いずれも、相手の心を動かしているのは、「心の持ち主」当人ではなく「言葉の使い手」の発する言葉だ。
言葉には、実際の心情よりも大きなものを人に伝えたり、もともと存在しなかった心情をさえ人に伝えたりする力がある。そんな言葉の力の強さや恐ろしさ、あるいはそれに翻弄される人間の心の滑稽さや愛らしさを照らし出したのが、この劇ではないだろうか。
女性役も含めて男優のみで演じるオールメールキャストの舞台。長谷川博己演じるクローディオには、線の細い美貌の青年らしい華を感じさせるものがあった。チョイ役の夜警を演じる井手らっきょも、とぼけたいい味を滲み出していた。
演出・蜷川幸雄。キャストは、ベネディック役・小出恵介、ビアトリス役・高橋一生、ヒアロー役・月川悠貴、ドン・ペドロ役・吉田鋼太郎、ヒアローの父レオナート役・瑳川哲朗、アントーニオ役・手塚秀彰など。さいたま芸術劇場にて。