渋谷にて、ハンマーで殴られる
渋谷のシネマライズで上映の韓国映画『息もできない』(ヤン・イクチュン監督)には打ちのめされた。
この映画は、借金の取り立てなどを請け負うヤクザ的な一団に属する主人公サンフンと、彼に偶然出会った負けん気の強い女子高生ヨニとのかかわりを主軸とした一篇だ。
サンフンは、色黒、短髪、チョビ髭のイモくさいなりに色気ある風貌のあんちゃんであり、何かにつけ手が出る、足が出る、粗暴極まりない男である。だが、粗暴さの鎧のうちに隠し持った純真さが、幼い甥っ子にかまけるところなどに、ときおり露呈する。彼は、父の家庭内暴力のために妹と母を亡くすという過去を背負っており、暴力への憎しみをいだいていながら、彼自身、暴力によってしか身を守れない、身を立てられない、という矛盾のなかに生きている。
ヨニは、観る者の第一印象として、女の子ながら、ふてぶてしいとかたくましいといった言葉が似合う人物だ。彼女は、家庭内でも父や兄の暴力にさらされていながらも、暴力に屈しない、毅然とした強さを持つ女性である。サンフンがヨニに対して心を許してゆくのは、ヨニが自分の暴力性を跳ね返してくれる、粗暴さの鎧など役に立たないと教えてくれる存在だからなのかもしれない。
暴力はこの映画に満ち満ちているが、反面、性的な要素はほとんどない。サンフンとヨニのあいだに成り立とうとしていた関係も、男と女の関係というより、仲のよい家族のきずなのようなものであり、それは彼らが現実の家族のなかで得られなかったものだ。二人は、互いに惹かれるものがありながら、ぐっと関係を近づけることも、自身をすっかりさらけ出すこともできない。なかでは、サンフンが、自殺を図った父を病院に運び込んだあとで、ヨニを漢江の川辺に呼び出し、俺は親父に献血をしてきたと告げ、ヨニの膝の上に頭を横たえて泣くところなど、サンフンがもっとも裸に近づいた、鎧を脱いだ場面だろう。そんなときでも、ヨニは自分の素性を明かさず、そこそこ恵まれた家庭環境に退屈しきっている女子高生といったふうを装い続けているところなど、けなげで切ない。
この映画、北野武の作風を彷彿とさせるところも少なくない。暴力を基調とし、それも、軽く蹴っているような動きや音がかえって凶暴さを感じさせるところなど。また、場面の切り替えの仕方などには、笑いのセンスも垣間見えた。サンフンが子分と一緒に借金の取り立てに行って、相手をボコボコにする場面のあとに、その家で出前の飯を食っている場面が続く。しかも、取り立てられた男だけはコーンフレークを食べている。
しかし、なんといってもこの映画の美質は、人物の存在感にある。たとえば、父への憎しみに駆られ、おまえを殴る前に酒を飲ませるのだと言って、焼酎を飲め飲めと父に強いる場面でのサンフンの瞳の異様な輝き。狂気じみた凶暴さと、傷つけられた子供の純粋さとが一体となって、この瞳の美しい光のなかに宿っていた。
脇役たちの存在感も見事なものだ。ヤクザ的な一団のボスであるマンシクが、事務所の机に置かれた鉢植えの葉っぱに霧吹きで水をかけている。それだけの行為にも、マンシクという男の根にある好人物ぶりが十全に表れている。
懐かしさと活力を感じさせるソウルの街の情景もいい。サンフンが、ヨニと甥っ子とともに街で過ごしている、おそらくはサンフンにとって幸福であるはずの場面を、遠くから、不安定に揺れるカメラワークで切り取り、さらにどこか寂しげなBGMをかぶせているところなどは、はかなさを感じさせて巧みである。
絶え間ない暴力の連鎖のなかで、サンフンは子分の一人からハンマーで殴られ、命を落とすことになる。こうなるのも必然、と思わされるが、惜しむべき男を失ってしまった、とも思わされる。
観客の一人であった僕もまた、ハンマーで殴られたような強烈な衝撃を引きずりながら、実際足元がおぼつかないほどの足取りで、渋谷の街を歩いていった。
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実は、この文章を書いてから、人名などを確認するため、パンフレットを初めて開いた。そこで分かったこと。主人公を演じていたのは、監督自身だった。脚本も監督が書いたとのこと。その多才ぶりに、あらためて感嘆。