遺された表情――古屋誠一写真展
恵比寿の東京都写真美術館に出かけ、写真展「古屋誠一 メモワール.」を観た。
百余点に及ぶ展示写真の多くは、古屋氏の妻であるオーストリア人女性クリスティーネを被写体としたものだ。
たとえば、こんな写真がある。倉庫のような殺風景な空間の一角に、クリスティーネがたばこを片手にしゃがみ込んでいる。カメラを見上げたその表情は、なにげなくくつろいでいるような、自然なものだ。それとほとんど同じ構図の写真がもう一枚ある。こちらは、表情が一変している。苦しみとも、悲しみとも、怒りともつかない、あるいはそれらが複雑に入り交じった表情が、彼女の顔に浮かんでいる。(これら二枚の写真を図録より引用。写真右。このサイズでは、なかなか表情はわかりづらいかと思うけれど。)
二枚の写真に写ったたばこの長さがほぼ同じであるため、これらがごく短い時間のうちに、せいぜい数十秒程度のうちに連続して撮られたものだとわかる。この二枚の写真のあいだに、何事があったのかはわからない。彼女の脳裏に蘇った何らかの記憶がこのような表情を強いたのか、もしくは撮影者である夫とのあいだになんらかの感情的なやりとりがあったのか、それとも……。彼女のとなりに転がっているのはマーガリンの段ボール箱だが、無論、マーガリンと彼女の感情とのあいだにはなんの関係もないことだろう。とにかく、観客である僕たちは、その表情の原因、理由を知ることはできない。
小説や映画、演劇などで人物の感情が表現されるときには、その前後で必ずといっていいほどその感情の原因、理由が提示される。僕たちは原因や理由を、つまりは感情の背後にある物語を知って、人物の感情に納得したり、同情や共感を寄せたりする。絵画や写真など、時間軸のない表現手段においても、その原因となる状況が同じ画面内に写し込まれていれば、僕たちはそこから人物の感情の由来を知ることができる。
だが、このクリスティーネの(二枚目の)写真には、ただ、表情だけがある。それも、著しく強く、複雑で名づけがたく、観る者を惹きつけ、困惑させる表情。感情自体の磁力によって共感を呼び寄せつつ、深部への進入を拒む孤独の様相を呈してもいる。
彼女は俳優になることを目指して学校に通ったこともあったというが、その夢は果たせなかった。彼女は物語を伝える役目には向かなかったのかもしれないが、夫の被写体となることで、得体の知れない感情そのものを、まがまがしいまでの力強さでフィルムに定着させ、観る者に謎を投げかけ、答えのない問いを発し続けることに成功した。
クリスティーネは大学生だった一九七八年に古屋氏と知り合い、同年結婚。一九八三年から精神的な病の発作に見舞われるようになり、一九八五年、自らの手で命を絶った。そして古屋氏の手元に、僕たち観客のまえに、彼女のこの上なく不思議で、この上なく豊かな表情が遺された。