恋する者のように
所用で訪ねたあるビルで、トイレに行ったら入り口に「Gentlemen」との表示があった。その珍しくもない光景をまえにして、ふと、他愛もない疑念が頭をよぎる。「Gentlemen」限定ということはジェントルでない粗野な男は入場できぬということで、それでは困る人もいるのではないか、と。しかし、ジェントルでない粗野な男とは、「Gentlemen」限定の表示があろうがおかまいなしに入ってしまうような男なのだろうから、けっきょく困る人もいないのだ、と腑に落ちた。この一連の自問自答のなかで、自分自身をちゃっかり「Gentlemen」の範疇に含めていたのが我ながら厚かましいところではある。
その夜、渋谷のユーロスペースに行き、アッバス・キアロスタミ監督が日本を舞台に撮った『ライク・サムワン・イン・ラブ』の上映最終日、最終回に滑り込んだ。この映画では、老いたジェントルマンと若い粗野な男が登場し、一人の女性を巡る騒動が展開する。
元大学教授で、いまは著述家として身を立てている老紳士の暮らす雑居ビルの三階に、夜、美しい女性が訪れる。彼女はどうやら派遣型風俗に類するアルバイトとしてやって来たらしい。雰囲気を出すために蝋燭で明かりを採り、彼女の出身地の名産であるという桜エビでだしを取ったスープなど用意していた老紳士だが、桜エビは食べられないのだと彼女の態度はつれない。背後に流れるジャズからは「like someone in love」のフレーズが聞こえる。翌朝、彼女を大学まで送っていった老紳士は、そこで彼女の恋人に出くわす。この若い男はDVの傾向があり、女性の行動を疑っている。老紳士は、彼女の祖父と誤解されるまま、若い男に落ち着き払った態度で人生を教え諭す。その日の午後、電話で助けを求められた老紳士は、殴られて路上にうずくまっていた彼女のもとへ車で駆けつけ、雑居ビルの自宅へ連れ帰る。老紳士が傷の手当てをしてやろうとしているところでインターホンが鳴り、若い男が追ってきたことがわかる。外で騒ぎ、老紳士を罵倒する若い男。うろたえる老紳士。窓ガラスをかち割られた瞬間、映画は突然の終わりを迎える。
あれっ、ここで終わるの、というのがそのときの率直な感想だった。老紳士と女性を襲った危機はいかに収束するのか。そのことについて映画はいさぎよいまでに何も語らず、ざわついた不安な気分が残る。まだまだ中盤から後半に差しかかったくらいかという感覚でいたのだが、実際には二時間近くが経過していた。作中の人と人とのやりとり――電話の音声でしか登場しない女性の祖母や老紳士の弟なども含めて――のずれ具合がめっぽうおもしろく、それだけのめり込んで観ていたということでもある。
不安の後で、僕の心に残ったのは、老紳士の姿の切なさである。余生にも近い穏やかな暮らしのなかで、若い女性を呼ぶような欲もある。ライク・サムワン・イン・ラブ――恋する者のように、彼は振る舞う。優しく、そしてぎこちなく、あくまで恋する者の「ように」。ところが終いには、彼は本物の色恋の修羅場のなかに突如として投げ出される。
アルバイトのことを隠していた女性も、行きがかり上祖父を演じた老紳士も、嘘をつくことのできる人々である。容姿に優れつつも暴力的な気性によって観る者に倫理的嫌悪感を催させる粗野な男は、他者の嘘を許すことのできない正直者である。彼の自動車修理会社での如才ない働きぶりと、恋人や彼の気に障る人々に対する凶暴さとの二面性は、少なくとも彼自身にとってはどちらも嘘ではない正当な振る舞いなのだろう。虚実の適切な制御によって平穏な日々を送ってきた老紳士の生活空間が、容赦ない現実の猛威によって食い破られた瞬間、窓ガラスの割れる音が響き、ひび割れは観客の意識にまで及んだのだ。