愛することと働くこと
改めて思い返してみると、宮崎駿監督の映画では、主要人物たちがじつによく空を飛んでいる。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『紅の豚』……。新作『風立ちぬ』の主人公のモデルは、零戦の設計者である堀越二郎。もちろん、空を飛ばないはずがない。
冒頭、少年時代の二郎は、夢のなかで不思議な飛行機に乗って、広大な田園風景のなかを自在に飛びまわる。この疾走感、開放感が素晴らしい。
子供心にいだいた飛翔へのあこがれは、飛行機を設計することへと形を変えて、大人になって具現化する。薄紫色のジャケットを着て、なかなかしゃれたメガネ男子風の装いながら、仕事には一心不乱に取り組んでいく。大人になった二郎の、落ち着いていて少しそっけないくらいの声がよいなと感じて、そういえば庵野秀明が担当しているということだったと思い出し、二郎の丸メガネが一瞬、庵野監督のメガネ姿にオーバーラップして見えてしまった。
途中、堀辰雄の小説世界を彷彿させる、高原の避暑地で絵を描く女性との出会いの場面が挿入される。その女性、菜穂子との恋は静かに熟していき、彼女が結核を病んでいることを知ったうえで、結婚へと至る。
堀辰雄の『風立ちぬ』になくて、宮崎駿の『風立ちぬ』にあるもの。それは、「働く」ということののっぴきならなさではないかと思う。「風立ちぬ、いざ生きめやも(生きなければならぬ)」という、堀辰雄の『風立ちぬ』に引用され、宮崎作品でも再引用されたヴァレリーの詩句がある。堀作品にあって「生きること」とは「愛する人とともにあることの幸福を感じること」として純化され気味であるのに対し、宮崎作品にあって「生きること」とは「愛すること」であるとともに「働くこと」でもあり、両者が同じくらい重みを持ったものとして存在している。二郎が片手で病床の妻の手を握りながら、もう片方の手で設計の仕事にいそしむ夜中の場面がある。どこか滑稽でもある二郎の後ろ姿は、愛することと働くことの重みを等しく感じながら生きる姿そのもののようにも見えた。愛することの結末がどうなろうとも、働くことの結末がどうなろうとも、人は愛し、働かなければならないのだろう。