少女の選択
Bunkamuraル・シネマにて、イラン映画『別離』(アスガー・ファルハディ監督)を観た。
ある夫婦の離婚調停の場面から映画は始まる。妻シミンと夫ナデル、それぞれの言い分が早口にまくし立てられ、離婚は成立する。十一歳になる一人娘テルメーの親権の問題は未決着のまま持ち越されるが、ひとまず夫ナデルとともに家に残ることになる。
妻シミンが家を出るのを機に、認知症を患う夫の父親の介護のために女性が雇われる。その女性ラジエーが流産するという事件を巡って、映画は展開していく。
ナデルが、不誠実と見えたラジエーの勤務態度に怒ってマンションから追い出した。そのときにラジエーが階段に倒れ落ちたことが、流産の原因となったのか。十九週以上の胎児の死には殺人罪が適用されうる。ラジエーを妊婦と知っていながら突き飛ばしたのなら限りなくクロに近づく。ラジエーの夫は気が荒く、この事件にいきり立っている。形のうえでは離婚しながら、娘のことを思い、家に戻るつもりがないわけでもないシミンにとっても、ナデルが殺人の罪に問われていることは他人事ではない。
尋問が進み、さまざまな人物の証言がなされるにつれ、事件の真相の新たな可能性が、観る者の脳裏に次々と浮かび上がっては消えていく。各人物の発言が、真実であるのか嘘であるのか。嘘であるとしても、その嘘をつくだけの動機がほの見える。それぞれの人物が何かから逃れようとして、あるいは何かを守ろうとして、懸命に振る舞っている。
とりわけ健気なのが、離婚した夫婦の娘テルメーだ。少女ながらいつも冷静で聡明さを感じさせる彼女は、父であるナデルの発言の嘘を見破り、真実を話すべきだと勧める。だが、いざ自分が証人として呼ばれると、彼女自身も嘘をついてしまう。それは、父が罪を着せられることを避けるためであるとともに、そのさきに父と母の復縁があることを願ってのことだ。
けっきょく真相らしきものとして、ナデルの行為が原因だったわけではないということが明らかとなり、事件そのものは幕引きとなる。
しかし、まだ決着のついていない事案が残っている。テルメーの親権の問題だ。父と母、どちらのもとで暮らしていくのか。それを彼女自身が選択することになっている。調停者のまえで、もう決心はついていると彼女は告げる。だが、どちらを選んだのかは、なかなか言い出せない。そもそもどちらか一方を選ぶことが彼女の本当の望みではないことを、観客は知っている。にもかかわらず、彼女はいったいどちらを選んだのか。その答えは明かされぬまま、映画は終わる。少女の言いしれぬ悲しみが、観客である僕の心に重く残された。