非現実の王国、子供の王国
渋谷のライズXで、『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』(ジェシカ・ユー監督)を観た。生前まったくの無名に終わった風変わりな人物の生涯を追ったドキュメンタリー映画。
ヘンリー・ダーガーは、掃除や皿洗いなどを生業とし、引きこもりがちで周囲の住人からはただ変人と見られながら、半世紀以上にわたって誰にも見せずに挿し絵の入った物語を書き続けたという。その物語は『非現実の王国で』といい、キリスト教徒の国と悪の国との果てしない戦いのなかで「子供奴隷」出身の七人の少女たちが活躍する話であった。映画から窺い知られるかぎりでは、子供が夜ごとに飽かず思い浮かべる夢想世界のように、似た場面が何度も繰り返される単調なもので、他者に開示することはまったく想定されていない、もっぱら本人のための物語だったようだ。
彼はまた、この物語の挿し絵も含め、膨大な絵を遺している。新聞や雑誌などの切り抜きで少女の写真やイラストを集め、それをトレースしたり模倣したりして絵の世界に取り込んでいったようだ。二次元的ともいえる立体感のない画風で、少女たちの顔は可憐だが抜け殻めいて表情に乏しく、彼女らの幼い肢体には、男子固有であるはずの突起が生えていたりする。子供たちと大人たちの戦乱の様相が執拗にえがかれていて、なかには子供たちが首を絞められたり内臓をえぐり出されたりしている場面もある。グロテスクにして少女趣味的、ポップにして宗教的な、独特の絵画世界が広がっている。
死後数十年経っており、数枚の写真しか残っていないという生前無名の芸術家の一生を、この映画では再現映像を使わずに撮り上げている。画面はおおむね、彼の描いた絵の世界と、彼の晩年の隣人たちが証言をしている様子と、時代を映す記録映像とから成る。彼の実人生と、彼の作り出した世界とが渾然と混ざり合いながら映画は進んでいくが、まさに彼の作り出した世界こそが彼の実人生の大きな部分だったのだから、しかるべくして採られた手法といえる。
ヘンリー・ダーガーは、両親、とくに母を早くに亡くし、諸々の施設を転々とさせられるなかで、強制労働にも近い辛酸を舐めて育ったという。のちに彼が尽きることなくえがき出していった物語や絵画の世界には、子供時代への回顧的感情に根ざしたところなどなかったに違いない。彼は現実には一度も踏みしめることのなかった子供の王国に、想像の世界で初めて入国を許され、獰悪な大人たちの猛威に常にさらされながら、その壊れやすい王国を守るために、孤独な防戦を続けていたのだろう。