蜷川幸雄の舞台にうっかり出演(と言っても過言ではない)
うっかり出演してしまった。さいたま芸術劇場にて公演の『コリオレイナス』、シェイクスピアが古代ローマに材をとって書いた悲劇だ。
冒頭、幕が上がるとその背後にまた鏡張りの幕があり、観客席の様子がまるまる映り込んでいるという趣向。
「あっ、俺もいた」
僕もしっかり舞台上の鏡に映っていた。これをもって舞台上に出た、出演した、というのは針小棒大、羊頭狗肉とのお叱りを受けかねないけれど、出たものは出た、と言い張りたい。そこへ民衆役のみすぼらしいなりをした男どもが舞台前面にぞろぞろ出てきて、観客席に向かって一礼。僕ら観客はおじぎされると反射的に拍手を返してしまうのだけれど、終幕ならぬ開幕早々に拍手するというのも珍しい。これは何か演出上の意図があるな、と思いつつ観ていた。鏡張りの幕は、その後透明になったり、ひらいたり、状況に応じて効果的に背景を形作っていた。
この劇では、高潔な武人コリオレイナスと、選挙権を持つ民衆との対立が、筋立ての軸の一つになっている。コリオレイナスは武勲の数々にも関わらず、うわべのお追従を言うことができない性格のため、高慢だとの反発を買い、民衆に執政官の選挙で落とされ、ローマの街を追われる。うわべの印象で人物を評価し、煽動に乗りやすく、目先の状況でころころと意見を変えるが悪意はないお人よし、一人一人は無力だが、集団で一つの方向に向かって結集するとすさまじい力のうねりとなって状況を動かすこともある、そんな存在として、民衆は描かれていた。
コリオレイナスの追放後、民衆は煽動者の護民官とともに勝利の勝ちどきをあげる。その場面に重なり合うように一瞬鏡張りの幕に観客席が映り込み、さっと途中休憩の幕が下りた。まるで、「民衆とは観客席の君たちのことでもあるのだよ」と言われたかのようだった。それまで、どちらかといえば、非業の主人公コリオレイナスの側に肩入れしながら観ていたのだけれど、主人公にこっぴどく批判されていた側の民衆こそ僕だったというわけで、演出家の批評意識に一撃を食らった恰好となった。冒頭で民衆役にわけもわからず拍手を送ったのも、彼らがじつは観客席の民衆の代表者だったから、と腑に落ちた。
というわけで、僕は民衆の有象無象の一人として、舞台上に(左右反転した形ではあったけれど)出演したのだった。
もちろん、端役で出させてもらったこと以外にも、卓抜した点は多々あった。勾配の急な階段を舞台全面に展開し、その上り下りで人物たちの変転する力関係を提示するしかけ。和風・仏教風な装いをふんだんに盛り込んだ舞台衣装や装置。コリオレイナス役の唐沢寿明の血気盛んな若武者ぶりに、メニーニアス役の吉田鋼太郎の堂々たる名脇役ぶり。見どころ盛りだくさんの舞台だった。