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こんとんの居場所 (冒頭)

 応援しているプロ野球選手のサヨナラホームランの記事が載っているに違いないと思ったのに見当たらず、勝ったはずの試合に負けたことにさえなっているのに憤然となりかけて、そのスポーツ新聞が前日のものであることにようやく純一は気がついた。コンビニのゴミ箱からはみ出ていたのを引っこ抜いてきたものだから、日付が違うなどとぜいたくを言う資格もない。
 この日の夕食として折りたたみ式の小さな座卓に載っていたのは焼きそばとスープだった。純一は少しの栄養分をも無駄にしないよう、カップ焼きそばの麺をふやかすのに使った湯を捨てずにお椀にそそぎ、ワカメスープの粉末を溶かすのに流用していた。発泡スチロール容器から湧き上がってくる焼きそばの湯気を顔に浴びながら、噛みしだいた麺からにじみ出るソースのうま味を堪能し、フリーズドライのキャベツの歯応えを丹念に確かめていた。
 紙面をめくる乾いた音、麺をすする湿った音、麺をすする湿った音、紙面をめくる乾いた音、麺をすする湿った音、ワカメスープを飲む濡れた音、紙面をめくる乾いた音……。視線は、プロ野球の試合経過を伝える記事を追ったのち、セ・パ両リーグ打撃成績一覧の数字の羅列のうえでしばし不規則な動きを示してそれらの数値がもたらす微妙な刺激を享受した。そのあとのページはさっと眺めるくらいで、サッカーの記事を素早くすり抜け、ゴルフの記事を勢いよく飛ばし、競馬欄を一気に駆け抜け、求人欄に差しかかった。いつもならここもあっさり通過するところだけれど、このとき純一の視線は迷路に入り込んだように複雑な動きを見せはじめた。学生アルバイトの延長で続けていた引越の仕事を辞めてから、もうだいぶ日数が経つ。
 建設。建設。土工。土工。土工。土工。内装。大工。左官。鍛冶。外構。鳶工。鳶。多能工。除染。配管。舗装。解体。運転。ダンプ。営繕。設備。日払。水道。古紙。チラシ。即決。工場。工場。工場。調理。至急。ホテル。店長。新規。警備。警備。警備。タク。寮完備。配達。配達。……細かく仕切られた区画のなかに広告文がぎっしりと詰め込まれ、それぞれの先頭の二、三文字が大きめの活字で組まれて見出しの役目をなしている。そこへ視線を走らせているうちに、急募、という見出し活字のしたに記された、漢詩のできそこないのような三行広告が目に留まった。

  渾沌島取材記者
  経験不問要覚悟
  長期可薄給裸有

 唇をかすかに動かして、一音一音をじっくりととらえ返してみる。
 こんとんとう、しゅざいきしゃ。けいけんふもん、ようかくご。ちょうきか、はっきゅう、はだかあり。
 こんとんとう、はだかあり……。
 渾沌島という未知の地名より、取材記者という興味深げな職種より、裸という一文字につい心惹かれてしまった自分自身のふしだらさを恥じながら、純一は三行の真下に横書きで記されていた番号に電話をかけてみるかと思い立った。番号のあとには、募集している団体の略称なのか「CRCC」と書いてある。続いて事務所の所在地らしき「東京・江戸川」との記載もあった。薄給、と明記されているのが気がかりではあったけれど、正直でよいとも思えたし、いまの自分にはそのくらいのところから始めるのがちょうどよいような気もした。それにしたって採用されるかどうかもわからない。
 柱にかけた時計を見上げると、夜の十時をまわっている。問い合わせの電話をするには遅すぎる。あしたにするか。もし、あしたになっても気が変わらなければの話だけれど……。
 座卓の片隅に、丁寧な筆跡で「石山菜摘」と、さらに「080」で始まる携帯電話の番号の書かれた紙切れが置いてある。おとといの夜に訪ねてきた大学時代の友人、吉村から受け取ったものだ。ここに名の挙がっている菜摘自身が、久々に会った吉村と話しているうちに手帳を取り出し、白紙のメモページを破って書き記してくれたという。純一はかつて、菜摘の連絡先を携帯の登録から消してしまっていたのだけれど、記憶におぼろげに残っていた三年あまりまえの番号と変わりはないようだった。電話だったら求人広告のほうより、むしろこっちにかけたい。最近どうしてるんだろうね、って気にしてたぞ、と吉村から菜摘の言葉を伝え聞いた。ほんのひとしずくの言葉が純一にはこのうえなく貴重なもので、干からびた心にじんわりとしみ入ってきた。しばらく人とのつながりもなく、薄暗いアパートの一室で気力なく日々をやり過ごしてきた。菜摘に近況報告をしたいと思いつつ、いったい報告できるような近況というものがあるだろうかと自問する。愛想を尽かされたといってもいい当時と比べ、少しでもマシになったといえるところは……、残念ながら思い当たらなかった。あらためて愛想を尽かされ直すために電話するというのもおかしなことに違いない。まずは仕事だ。純一は菜摘のメモ書きのしたに「CRCC」の文字と「03」で始まる連絡先を走り書きした。スポーツ新聞をたたんで畳のうえに投げ置くと、発泡スチロール容器の底に残ったキャベツのかけらと麺の切れ端を箸でかき集めて口に運んだ。
 リサイクルショップに持っていって食費の足しにしようかと思いつつそのままにしていた十九インチのテレビをつけ、スポーツニュースでプロ野球の試合結果を確かめた。久々に目覚ましをセットし、床に就いたのは日付の替わりかけたころだった。

掲載誌 : 『小説トリッパー』二〇二〇年秋号(九月十八日発売)
[掲載誌の詳細]https://publications.asahi.com/…
「こんとんの居場所」の作中作から掌篇三篇
 ✿ ハイビスカス 千夜子の話
 ✿ ラフレシア 園田先生の話
 ✿ サフラン 純一の話

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