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2008年1月20日の記事

降り続くジャスミンの花

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080119ペルセポリス

 渋谷・シネマライズで上映中の映画『ペルセポリス』を観た。イラン人女性の自伝的漫画を原作としたアニメーション作品で、原作者マルジャン・サトラピが他の男性監督(ヴァンサン・パロノー)と共同で脚本・監督も務めている。
 イランで生まれ育った少女マルジが、内乱・戦争の時代をくぐり抜け、ヨーロッパへの留学を体験し、大人になっていくという過程を、この映画は追う。現在に近い一部の場面でカラーが用いられているほかは、すべてモノクロで画面が構成されている。
 イラン革命前後の動乱のなかでマルジの身近な人々を含めて多数が投獄・処刑の憂き目に遭い、イラン・イラク戦争の勃発により街が空襲にさらされ、また、宗教警察が目を光らせるなかで自由な文化の享受も抑圧される。このような、まさにモノトーンの色調にふさわしい時代背景が描かれているにもかかわらず、不思議なことに、やわらかくてほの明るい情感が全編を貫いていた。それはまず、自由で進取的な家庭に育ったマルジの持つ、ユーモアやしたたかさ、茶目っ気によるところが大きい。単に主人公がユーモラスだというより、作品の作り方そのものがユーモラスなセンスに裏打ちされているのだと言ってもいい。悲しい出来事はいくつも起こるが、さっと場面を切り替える。たっぷり長回しにして、観客にいっしょになって悲しみにひたってもらおう、などと欲をかくことを作り手が恥じているかのようである。
 マルジが祖母と一緒に映画館で『ゴジラ』を観る場面がある。建物が次々になぎ倒される。踏みつぶされる、と思って観ていたら人が踏みつぶされる。飲み込まれる、と思ったら本当に人が飲み込まれる。映画館を出て、「日本人はなんで切腹と怪獣の映画ばかり作るのかしらねえ」と祖母がぼやいたりもする(台詞の引用は記憶に頼っているので細部は不正確。以下同じ)。そんな場面があるかと思うと、街が現実に空襲の被害を受けて、がれきのなかで人が息絶えているのを目撃するという場面もある。これはユーモラスと言うには不謹慎なのでそうは言えないが、深刻なことをあえて深刻でなく見えるように描くところから、かえって出来事の重みが伝わってくる、ということもある。
 ウィーンに留学したマルジは、異国人としての疎外感にさいなまれるなか、パンク風の連中と仲間になる。そのうちの一人から、「イランでは本物の戦争が起こっているんだろ?」というようなことを訊かれて、戦乱の様子を答えると、「そりゃ、すげえ」という反応が返ってくる。いままさに祖国で続いている戦争の話が「そりゃ、すげえ」で片づけられるというのは、生真面目にとらえればショッキングなことのはずである。マルジも内心傷ついたかもしれない。だが、つらく重苦しい体験というものが、簡単に他者から受容されるはずもないものだと、作り手は知り抜いていたのに違いない。観客に対しても、「そりゃ、すげえ」という興味本位で気楽にこの映画を観ていてくれていいんですよ、という気配りがあり、それがユーモラスな描写や場面展開となって表れ出ている。それはいわば、人間の相互理解の壁にしたたか打ちのめされたうえでたどり着いた態度であるのかもしれない。
 留学先から帰ってきて無気力に陥ったマルジは、精神科医の診断を受けることになる。長椅子に横たわって話をするマルジの言葉に聞き入っている様子の医師は、実はカルテにただ落書きのような絵を書いている。そして話を聞き終えると、「なるほど。あなたは鬱病です」と告げる。ここには、辛辣な笑いの表現がある。相互理解の壁から生まれ落ちたユーモアというのは、こんな場面にも表れていると思う。
 最後、マルジはかつてなじめなかったヨーロッパの地へとふたたび旅立つ。パリのオルリー空港で乗ったタクシーの運転手に「どこから来たんです?」と尋ねられ、「イランから」と、マルジはごく当然のことをごくさりげなく答える。むろん、彼女が何か立派な人物になった、という結末ではない。ただ、自分はイランから来た、自分はイラン人だ、ということを言える、そのささやかなことを到達点として示すともなく示して、終幕となる。
 マルジのパリ行きと入れ違うようにして、祖母が寿命を迎える。マルジにとっては、たくましく、自由な心と愛嬌を失わず、「公明正大に」生きることを教えてくれた祖母。ブラジャーのなかに、いつでもジャスミンの花をいっぱいに詰め込んでいるというユニークな習慣の持ち主でもあった。黒地に白字のエンディングロールで、下から上に多数の人物名が流れていくのとすれ違いに、幾多のジャスミンの花が、上から下へと尽きることなくゆったりと舞い降りていく。その白い花模様が、この映画を観た体験として心のうちに静かに降り積もっていくようで、僕はずっとその花の動きを追い続けていた。




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