冒険し、成長する老人
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見終わってもりもりと力が湧いてくるような舞台だった。老人の冒険と成長の劇。これが少年や青年だったら、物語のなかで冒険をして成長するというのは常套だけれども、老人にしてなお冒険と成長があるというのは稀なことではないだろうか。蜷川幸雄はシェイクスピアの傑作『リア王』をそのような劇として演出して見せてくれた。
老王として身にまとっていた富も名声も権力もあらかた引きはがされて、ただむき出しの人間そのものとして荒野をさまようリア。とさか頭の「阿呆」や半裸体の「気狂い乞食」らに取り囲まれて、リア自身がそれらの者と対等になっていく。彼らが嵐の晩の納屋で正気と狂気のあいだを縫って交わすやり取りの場面は、悲惨ではあっても陰惨ではなく、妙に生き生きとした精彩に富む。リアは八十を過ぎて遍歴の旅路に投げ込まれ、人間について学び、視野を大きく広げていく。だから、彼が息絶えたことも、非業の死というよりは、なすべきことをなし遂げて、去るべきときに世を去った、充実した生の終焉だったのだと感じられた。
老いてもこれだけの冒険と成長の日々がありうるのなら、老人になるのもまんざらではない。ましてリアに比べて相当若輩である自分などが、虚無や倦怠にかまけてしおれている場合ではないのではないか。そんな励ましを受ける、不思議な悲劇の舞台だった。
リア役の平幹二朗が老人の頑迷さと純真さを、グロスター伯役の吉田鋼太郎が壮年の愚直さと力強さを、エドガー役の高橋洋が青年の繊細さと勇敢さを好演していた。エドマンド役で悪の魅力を演じきった池内博之の精悍さも、闇のなかでよく映えていた。
さいたま芸術劇場にて。