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2008年9月7日の記事

金魚のような女の子

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080907崖の下のポニョ

 宮崎駿監督が激怒している姿を僕が見たのは、北京オリンピックが始まる数日前のことだった。
 その日、届いたばかりの液晶デジタルテレビを設置して、映り具合を確かめていたら、たまたま『崖の上のポニョ』制作中の宮崎監督を追ったドキュメンタリー番組がやっていた。そこで宮崎監督が怒っている様子を横長の高画質でじっくりと見つめることになったのだ。
 あるアニメーターが描いて持ってきた下絵にカモメが飛んでいたのだが、そのカモメの描きかたに宮崎監督は不満があるようだった。どういう言葉づかいで怒りを表していたか、つぶさには思い出せないが、僕なりに再現してみると、こういうことだった。「このカモメは、なんとなくそれらしく見えるだけで、ちっとも正確じゃない。だいたいこんなところだろう、じゃ駄目なんだ。いい加減にやっているんじゃないのか」と。また、「実物を見られなくとも、せめて本で得た知識でもいいから、正確に描こうというつもりでやってくれ」とたしなめてもいた。
 正確、という言葉を宮崎監督が使っていたかどうかは定かでない。リアルという言葉か、もっと別の言葉であったかもしれない。このように、そもそも僕の記憶が不正確であるということも問題なのだが、それはさておき、宮崎監督が言っていた、正確に表現するということに関する戒めは、心に重く響くところがあった。
 宮崎監督が求めていた正確さとは、写実的であるとか、写真のようにそっくりであるといったことでは、もちろんない。『崖の上のポニョ』の絵は、写真のような精密さからはほど遠い、大らかでシンプルな画風だ。
 対象を写真のように描こうとすれば一万本の線が必要になるところを、十本の線だけで描く、といったことが必要とされていたのに違いない。ここで肝心なのは、その十本の線をいかに見つけ出すか、ということではないか。それは対象の特徴を表すために必要な線であり、現実そっくりであるより、適切なデフォルメがなされるべきものだろう。「デフォルメ」と「だいたいこんなところ」というのは違う。まず最初に対象の特徴を正確に掴むところから始めたのか、ということを宮崎監督は問いたかったのだろう。
 これはアニメにばかり当てはまることではなく、創作的な表現に通底する問題だと思われる。たとえば文学でも、一万語を費やさずに十語で情景を描写するとして、その十語をいかに見つけ出すか、そのまえに対象の特徴を捉えることができているか、だいたいこんなところだろうで済ませていないか、といったことは問われなければならない。そんなことを僕は感じ、表現するということについて思いを新たにしたのだった。

 前置きが長くなったが、先日、『崖の下のポニョ』を観た。あのカモメのシーンがどこで出てきたのか、とくに注意していなかったのでうっかり見過ごしてしまったが、描き出された世界は生き生きとして、魅力に満ちた作品に仕上がっていた。純愛とは、五歳の子供にのみ可能なものなのかもしれない。五歳児・宗介の言動は素朴だが妙にリアルに感じられた。ポニョという金魚のような女の子は生気に溢れていて、はちみつをスプーンで舐めて目が三色に輝くところとか、最後、人間になるために自分から宗介にキスする積極性など、素敵だった。




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