男と女、虚構と真実
『トスカーナの贋作』(アッバス・キアロスタミ監督)を観に、渋谷のユーロスペースへ。
講演に来た作家の男と、それを聞きに来た女。二人の関係の不確かさが、この映画を貫いている。
男はイギリス人の作家であるらしく、芸術における贋作の意味について書いたエッセーで賞を取り、イタリア・トスカーナの地に講演に招かれた。女は子供とフランス語で会話しているからフランス人と思われるが、イタリアで暮らし、骨董品の店を持っている。
女は男を自分の店に招き、そこからドライブに誘う。男は帰りの電車の時間を気にしているが、誘いに応じる。その道中、立ち寄る先々でのやり取りから、二人は知らない間柄ではないのではないか、と観る者に感じさせる。喫茶店の女主人に、二人が夫婦であると「誤解」されたのを機に、あたかも実際に夫婦であるかのようなやり取りを始める。しかし、それは夫婦のふりなのか。二人は実際、かつては夫婦だったのではないか。いや、いまでも夫婦で、夫が家になかなか寄りつかなくなっているのではないか。そんなふうにも感じさせる。最後に、男が帰りの電車のことを言うところで、やはり二人は夫婦ではなかったのかな、でも……と、二人の関係は判然としないまま終わる。
二人の会話は、英語、フランス語、ときにはイタリア語と切り替わり、それによって二人の距離感も微妙に変わり続ける。あたかも、二人のあいだに――男と女のあいだに――ぴったりの共通言語などないかのように。二人のいだく夫婦観の溝は、ささやかなようで深い。男にとっては仕事があって家庭があって、前者に比重を置きつつも両者のチャンネルを切り替えながら生きている。女にとって夫婦生活とは――通りすがりの旅行者から男が受けた忠告に従うなら――なにも大仰なものではなく、休みの日にただ並んで歩く、そして何かをともに観て、感慨を共有する、そうしたことがだいじなのだ。
美術に造詣の深い男は、女に連れられて、新婚旅行で泊まったという宿を訪れ、窓からそとを眺めるが、かつて見ているはずの美しい光景を、覚えていないという。彼にとって、仕事で携わる美術品に比して、新婚旅行で見た光景などは記憶するに値しないものだったのだとしたら、女にとっては、やるせないことだろう。いや、男が本物の(元)夫ではなく、ただ(元)夫のふりをしているだけだとしたら、来たこともない新婚旅行の光景を覚えていないというのは当然のことなのだが、虚構の夫であるにもかかわらず、夫というものの本質を露呈してしまっていることになる。
二人の夫婦関係は、虚構であるかもしれないからこそ真実を鮮明に浮き彫りにするようなところがある。虚構によって真実を照らす――これは、すべての芸術に共通する原理であるともいえるし、キアロスタミはこの原理を意識的に可視化してみせながら作品世界を構築する、たぐいまれな創作者である。