包帯ぐるぐる巻きのまま
北野武監督『アキレスと亀』は、人生のすべてを芸術上の成功という一点に張った、ある男の賭けの映画だ。最後まで見て初めて真価がわかる映画だという点で、監督にとってもこれは危うい賭けの一作だったのではないか、と僕は感じた。
映画は、少年期に絵をかくことに目覚めた男(真知寿)が、画家の卵のまま世に認められることなく青年期を経て壮年期を生きていくさまを追っている。この男の人生の基調をなすのは、真摯だが決して深みを帯びることのない、哀切な表層感といったものだ。誤解のないようにつけ加えておくと、深みを描き出すことに失敗しているということではなく、深みに至りえない人生というものの悲哀を描き出すことに見事に成功している、ということだ。
裕福な暮らしから一転して一家の没落に直面する少年期の展開は、不幸な生い立ちの定型をわざとわかりやすくなぞって見せるかのようだ(にもかかわらず、というべきか、少年役の役者は気品があって美しく、静かに存在感を示していた)。
青年期に入ると、男は、芸術家気分に浮かれた美術学校の仲間たちの乱痴気騒ぎのなかにぼんやりと突っ立つ一方で、画商のいい加減なアドバイスに従って画風を次々に変えていく。周囲の状況に流されるままのようにも見える男だが、絵をかきつづけることへの思いだけは一途で途切れることがない。
結婚し、壮年期になっても男は相変わらず気まぐれな画商の言いなりになり、妻の協力をあおいで過激な実験アートの真似事のようなことをして警察沙汰になったりしている。妻には愛想を尽かされて去られ、男は死を決意する。芸術に殉じようとするかのように、藁を積んだ納屋に火をつけ、そのなかで絵をかきながら燃え尽きようとするが、救急車で運び出され、包帯でぐるぐる巻きにされて退院させられてしまう。悲劇の芸術家のような死にかたさえ、この男には許されていない。
包帯ぐるぐる巻きのまま、男はバザーの片隅に座り、錆びて半分腐蝕したコーラの空き缶を置いて、二十万円の値札を掲げている。これは、芸術に翻弄される人生を歩んだ男の、ささやかな抵抗の意思表示だろう。芸術の値打ちというものを、誰が正しく決めることができるのか。この腐りかけのコーラの空き缶だって、二十万円で売る人がいて、もし買う人がいれば、それだけの値打ちがあるということになるんだろう、と。
そこへ、「この空き缶、買うわ」と声をかける女が現れる。かつて男のもとを去っていた、妻だ。「さ、帰りましょ」と促され、男は妻と二人で歩いていく。ここまで芸術に賭けてきた紙屑同然の人生すべてと引き換えに、男が得たのは、ただ一人の女の愛だった。妻の出現で、この男の人生が、この映画が、丸ごと救済される――。そんな感触をもたらす締めくくりの一場面が、素晴らしかった。