ラフレシア
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ボルネオのジャングルのなか、山裾の少し標高の高いところに、ラフレシアの花はひっそりと生えています。ボルネオといったら、いまじゃ北はマレーシア領、南はインドネシア領、それから北西の一角にはブルネイという国もある、ずいぶん広い熱帯の島です。あそこでは石油が採れるということもあって、かつての戦争の時分には日本軍が進駐しておりました。いくさの相手方は、連合国側のアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアといったところです。僕の父も一兵卒として南方戦線の一角をなす北ボルネオへ送られました。
父はもともと百貨店に勤めていまして、ひょろっとした体つきの男でした。僕が幼かったころ、裏庭で一緒に栗を拾ったのを覚えています。トゲに覆われているのを父が踏みしだいて、出てきた中身を僕に拾わせてくれたんです。集めた栗は母がゆでておやつにしてくれました。硬い皮のついたまま、包丁で半分に切ったのをスプーンですくって食べたものです。父も一緒になって食べながら、「かつては甘栗といううまい栗が売られてたんだ。食わせてやりたいなあ」と言っていました。甘栗に使う栗は日本のものとは品種が違って大陸産のものだったのですが、戦時下で輸入が途絶えていたのです。
当時の僕からすれば父は大の大人でしたが、いまになって振り返ってみると、まだ若い、どこかあどけなさの残る顔立ちが思い起こされます。その父が、赤紙を受け取って召集されまして、出征したときには僕は数え年で七つ、満六歳ぐらいだったのか、国民学校の一年生でした。旗を振って父を見送り、のちに戻ってきたのは、ただ父の名前の書かれた紙切れを納めた、骨のひとかけらさえ入っていないうつろな骨壺だけです。
広大なボルネオ島の道もないジャングルのなか、東海岸から西海岸へと抜ける数百キロを転進するよう命じられ、ぬかるむ地面に足を取られながらの行軍途中、父を含めて所属部隊の多くが落伍して、餓死か、マラリアか、赤痢か、そうしたことであらかた命を落としたのです。敵の上陸に備えて守りを固めるためになされた行軍だったのですが、作戦の決定は、現地から遠く隔たったところでジャングルの実相を知らずに下されたものでした。この作戦によって英豪軍の捕虜も収容所からの移動を強いられて、多数が犠牲になっています。父が飢えにさいなまれ、あるいはマラリアの高熱にうなされ、赤痢の頻繁な血便に苦しめられながら息も絶え絶えだったとき、脳裏には祖国の命運よりも、ただ本土に残してきた妻子の姿があったのではないか。そんな気がするけれども、うかがい知ることはできません。戦後になって生き残ったかたから聞いた話では、栄養に乏しい兵士たちの体にずんぐりとした山蛭たちが取りつき、容赦なく血をすすって赤々と輝いていたといいます。傷口には生っ白い蛆が群がって、膿や腐肉をむさぼっていたと。夜に土砂降りの雨に打たれて体温を奪われ、そのまま目を覚ますことなく冷たくなっていった者たちもいました。
果たして、父のひょろっとしたあの肉体は、どこへ行ってしまったのか。僕には不思議でしょうがない。ジャングルの奥地で土に還ったのかもしれないし、そこから養分を吸った草木がいまでもどこかに生い茂っているのかもしれない。そう考えるとねえ、生きているのやらいないのやら、なんだかわからなくなりますよ。
もう僕はずいぶん年老いましたが、ラフレシアの研究に取りかかったのは若くて体力もだいぶあったころです。ボルネオの海岸の街を発って内陸に入り、フタバガキやメンガリスの高木なんかが生い茂ったジャングルに分け入っていきました。僕の主たる研究対象じゃなかったけれども、蘭のたぐいもよく目にしましたし、食虫植物なども大いに魅力的でした。木々を見上げると、カニクイザルだのテングザルだのが枝から枝へと渡り歩いていることもありました。樹上に寝床を作るためにオランウータンが枝を折っている音を耳にして、その毛深い姿を遠目に見かけもしました。
かつて話に聞いた山蛭にもずいぶん出会いましたよ。ぼとっ、ぼとっと無遠慮に木のうえから落ちてきて、背中に這い込んだりしましてね。あれは無理にはがそうとしても痛いばかりだけれども、エサを吸うだけ吸って赤ん坊の唇ほどの大きさだったものがタラコ唇ほどまでふくれ上がると、自分からまたころっと落ちていくんです。避けようったってすっかり避けきれるものじゃないから、最初から山蛭に吸わせるつもりで余分に血を蓄えていくしかない。
そんな探索のさなかにジャングルのはざまの集落に出て、高床式の家から顔をのぞかせた老人に呼び止められたことがありました。ある部族の小さな村で、老人はそこの村長でした。僕と同じぐらいたどたどしい英語を話す長老でしたよ。珍しい異国の客をもてなそうと思ってくれたようで、僕はありがたく家に上がってコーヒーをいただきました。「日本人が通りかかるのは戦時中以来のことです」と長老は言いました。「かつて、兵士たちが差し出す煙草や日本のお札と引き替えに、キャッサバやバナナを提供したものです。煙草は吸ってしまったけれども、お札は残っています」と語り、部屋の奥から茶色く変色した軍票を持ってきてくれました。日本のお札といっても占領地の通貨単位に合わせて刷られたもので、このとき拝見したのは日本政府発行のドル紙幣でした。「いまとなってはただの紙切れになってしまいましたね」と申し上げたら、「当時からただの紙切れでしたよ」と長老は微笑んでおられました。僕はマレーシアの紙幣を取り出して、「これと交換してもらえませんか」と申し出ましたが、「いやいや、記念の品ですから」というのが返答でした。「ところであなたはなぜ、むかしの日本兵のようにこんなジャングルのなかをさまよっているんです? 見たところ銃は持っていないようだし、飢えてもいないようだが……。遺骨の収集ですか」と長老に問われましてね。「違います。ラフレシアを探してるんです」と答えたところ、「変わったものをお探しですね」と笑っておられました。それからまた探索を続けるべく、長老の家を出たのでした。
僕の求めるラフレシアというのは、茎もなく葉もなく、地面から直接顔を出して咲くんです。あれは半年以上も黒ずんだ鉄球のようなつぼみの姿でじっと身をひそめていて、ひとたび赤茶の巨大な花弁をひらけば一週間のうちに枯れ果ててしまうので、やすやすとお目にかかれるものじゃありません。キナバル山の裾野を幾日も探し歩いて、ようやく出会えるかどうかといったところでした。
この花は便にも似た腐臭を放ちます。においがとくに強く漂ってくるのは咲きはじめのころでして、それでどういうことが起こるかといえば、蠅が寄ってくるんです。蠅のやつらは、食事にありつけそうだと思って来るんでしょう。連中が雄しべに触れたり雌しべに触れたりしてくれれば、ラフレシアにとっては受粉ができます。これは花にしてみたら、生殖行為を蝶に手伝ってもらうか、蜂に手伝ってもらうか、それとも蠅に手伝ってもらうかということでしかない。それをいいにおいだとか悪いにおいだとか言っているのは人間なんであって、蠅にとってはこれこそ魅力的なにおいなんでしょう。そもそも地面というものには動物の排泄物やら死骸やら、枯れ葉や倒木なんかもだけれども、生き物の腐ったようなものが溶け込んでいるんです。そういうものを養分として吸って育った植物から甘い香りがするなんていうことのほうが奇妙なんであって、何を気取ってやがる! という気が僕なんかはしてしまいますよ。その点、ラフレシアというのはもっとも素直に、吸い取ったものをそのまま吐き出しているようなものでした。
この花を見つけると、僕はたかっている蠅どもに入り交じって身をかがめ、花のまんなかのくぼみに、言うなればラフレシアの口、いや、尻の穴に、顔をうずめて思う存分、においをかぎました。ああ、くさくていいにおいだねえ、と語りかけながら。そんなときには僕も蠅になった気分がしましてね、実際のところ、一瞬だけ背中に透き通った羽が生えたこともありました。
単行本 : 『こんとんの居場所』国書刊行会、二〇二三年四月
*表題作のほか、小説「白い霧」を収録。
[単行本の詳細]https://www.kokusho.co.jp/…
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ボルネオのジャングルのなか、山裾の少し標高の高いところに、ラフレシアの花はひっそりと生えています。ボルネオといったら、いまじゃ北はマレーシア領、南はインドネシア領、それから北西の一角にはブルネイという国もある、ずいぶん広い熱帯の島です。あそこでは石油が採れるということもあって、かつての戦争の時分には日本軍が進駐しておりました。いくさの相手方は、連合国側のアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリアといったところです。僕の父も一兵卒として南方戦線の一角をなす北ボルネオへ送られました。
父はもともと百貨店に勤めていまして、ひょろっとした体つきの男でした。僕が幼かったころ、裏庭で一緒に栗を拾ったのを覚えています。トゲに覆われているのを父が踏みしだいて、出てきた中身を僕に拾わせてくれたんです。集めた栗は母がゆでておやつにしてくれました。硬い皮のついたまま、包丁で半分に切ったのをスプーンですくって食べたものです。父も一緒になって食べながら、「かつては甘栗といううまい栗が売られてたんだ。食わせてやりたいなあ」と言っていました。甘栗に使う栗は日本のものとは品種が違って大陸産のものだったのですが、戦時下で輸入が途絶えていたのです。
当時の僕からすれば父は大の大人でしたが、いまになって振り返ってみると、まだ若い、どこかあどけなさの残る顔立ちが思い起こされます。その父が、赤紙を受け取って召集されまして、出征したときには僕は数え年で七つ、満六歳ぐらいだったのか、国民学校の一年生でした。旗を振って父を見送り、のちに戻ってきたのは、ただ父の名前の書かれた紙切れを納めた、骨のひとかけらさえ入っていないうつろな骨壺だけです。
広大なボルネオ島の道もないジャングルのなか、東海岸から西海岸へと抜ける数百キロを転進するよう命じられ、ぬかるむ地面に足を取られながらの行軍途中、父を含めて所属部隊の多くが落伍して、餓死か、マラリアか、赤痢か、そうしたことであらかた命を落としたのです。敵の上陸に備えて守りを固めるためになされた行軍だったのですが、作戦の決定は、現地から遠く隔たったところでジャングルの実相を知らずに下されたものでした。この作戦によって英豪軍の捕虜も収容所からの移動を強いられて、多数が犠牲になっています。父が飢えにさいなまれ、あるいはマラリアの高熱にうなされ、赤痢の頻繁な血便に苦しめられながら息も絶え絶えだったとき、脳裏には祖国の命運よりも、ただ本土に残してきた妻子の姿があったのではないか。そんな気がするけれども、うかがい知ることはできません。戦後になって生き残ったかたから聞いた話では、栄養に乏しい兵士たちの体にずんぐりとした山蛭たちが取りつき、容赦なく血をすすって赤々と輝いていたといいます。傷口には生っ白い蛆が群がって、膿や腐肉をむさぼっていたと。夜に土砂降りの雨に打たれて体温を奪われ、そのまま目を覚ますことなく冷たくなっていった者たちもいました。
果たして、父のひょろっとしたあの肉体は、どこへ行ってしまったのか。僕には不思議でしょうがない。ジャングルの奥地で土に還ったのかもしれないし、そこから養分を吸った草木がいまでもどこかに生い茂っているのかもしれない。そう考えるとねえ、生きているのやらいないのやら、なんだかわからなくなりますよ。
もう僕はずいぶん年老いましたが、ラフレシアの研究に取りかかったのは若くて体力もだいぶあったころです。ボルネオの海岸の街を発って内陸に入り、フタバガキやメンガリスの高木なんかが生い茂ったジャングルに分け入っていきました。僕の主たる研究対象じゃなかったけれども、蘭のたぐいもよく目にしましたし、食虫植物なども大いに魅力的でした。木々を見上げると、カニクイザルだのテングザルだのが枝から枝へと渡り歩いていることもありました。樹上に寝床を作るためにオランウータンが枝を折っている音を耳にして、その毛深い姿を遠目に見かけもしました。
かつて話に聞いた山蛭にもずいぶん出会いましたよ。ぼとっ、ぼとっと無遠慮に木のうえから落ちてきて、背中に這い込んだりしましてね。あれは無理にはがそうとしても痛いばかりだけれども、エサを吸うだけ吸って赤ん坊の唇ほどの大きさだったものがタラコ唇ほどまでふくれ上がると、自分からまたころっと落ちていくんです。避けようったってすっかり避けきれるものじゃないから、最初から山蛭に吸わせるつもりで余分に血を蓄えていくしかない。
そんな探索のさなかにジャングルのはざまの集落に出て、高床式の家から顔をのぞかせた老人に呼び止められたことがありました。ある部族の小さな村で、老人はそこの村長でした。僕と同じぐらいたどたどしい英語を話す長老でしたよ。珍しい異国の客をもてなそうと思ってくれたようで、僕はありがたく家に上がってコーヒーをいただきました。「日本人が通りかかるのは戦時中以来のことです」と長老は言いました。「かつて、兵士たちが差し出す煙草や日本のお札と引き替えに、キャッサバやバナナを提供したものです。煙草は吸ってしまったけれども、お札は残っています」と語り、部屋の奥から茶色く変色した軍票を持ってきてくれました。日本のお札といっても占領地の通貨単位に合わせて刷られたもので、このとき拝見したのは日本政府発行のドル紙幣でした。「いまとなってはただの紙切れになってしまいましたね」と申し上げたら、「当時からただの紙切れでしたよ」と長老は微笑んでおられました。僕はマレーシアの紙幣を取り出して、「これと交換してもらえませんか」と申し出ましたが、「いやいや、記念の品ですから」というのが返答でした。「ところであなたはなぜ、むかしの日本兵のようにこんなジャングルのなかをさまよっているんです? 見たところ銃は持っていないようだし、飢えてもいないようだが……。遺骨の収集ですか」と長老に問われましてね。「違います。ラフレシアを探してるんです」と答えたところ、「変わったものをお探しですね」と笑っておられました。それからまた探索を続けるべく、長老の家を出たのでした。
僕の求めるラフレシアというのは、茎もなく葉もなく、地面から直接顔を出して咲くんです。あれは半年以上も黒ずんだ鉄球のようなつぼみの姿でじっと身をひそめていて、ひとたび赤茶の巨大な花弁をひらけば一週間のうちに枯れ果ててしまうので、やすやすとお目にかかれるものじゃありません。キナバル山の裾野を幾日も探し歩いて、ようやく出会えるかどうかといったところでした。
この花は便にも似た腐臭を放ちます。においがとくに強く漂ってくるのは咲きはじめのころでして、それでどういうことが起こるかといえば、蠅が寄ってくるんです。蠅のやつらは、食事にありつけそうだと思って来るんでしょう。連中が雄しべに触れたり雌しべに触れたりしてくれれば、ラフレシアにとっては受粉ができます。これは花にしてみたら、生殖行為を蝶に手伝ってもらうか、蜂に手伝ってもらうか、それとも蠅に手伝ってもらうかということでしかない。それをいいにおいだとか悪いにおいだとか言っているのは人間なんであって、蠅にとってはこれこそ魅力的なにおいなんでしょう。そもそも地面というものには動物の排泄物やら死骸やら、枯れ葉や倒木なんかもだけれども、生き物の腐ったようなものが溶け込んでいるんです。そういうものを養分として吸って育った植物から甘い香りがするなんていうことのほうが奇妙なんであって、何を気取ってやがる! という気が僕なんかはしてしまいますよ。その点、ラフレシアというのはもっとも素直に、吸い取ったものをそのまま吐き出しているようなものでした。
この花を見つけると、僕はたかっている蠅どもに入り交じって身をかがめ、花のまんなかのくぼみに、言うなればラフレシアの口、いや、尻の穴に、顔をうずめて思う存分、においをかぎました。ああ、くさくていいにおいだねえ、と語りかけながら。そんなときには僕も蠅になった気分がしましてね、実際のところ、一瞬だけ背中に透き通った羽が生えたこともありました。
単行本 : 『こんとんの居場所』国書刊行会、二〇二三年四月
*表題作のほか、小説「白い霧」を収録。
[単行本の詳細]https://www.kokusho.co.jp/…
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こんとんの居場所(冒頭)
作中作から掌篇三篇
✿ ハイビスカス 千夜子の話
✿ ラフレシア 園田先生の話
✿ サフラン 純一の話
掲載誌 : 『小説トリッパー』二〇二〇年秋号(九月十八日発売)
[掲載誌の詳細]https://publications.asahi.com/…
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