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旧blogから、映画・演劇等の鑑賞記録を再公開 〔→目次

降り続くジャスミンの花

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080119ペルセポリス

 渋谷・シネマライズで上映中の映画『ペルセポリス』を観た。イラン人女性の自伝的漫画を原作としたアニメーション作品で、原作者マルジャン・サトラピが他の男性監督(ヴァンサン・パロノー)と共同で脚本・監督も務めている。
 イランで生まれ育った少女マルジが、内乱・戦争の時代をくぐり抜け、ヨーロッパへの留学を体験し、大人になっていくという過程を、この映画は追う。現在に近い一部の場面でカラーが用いられているほかは、すべてモノクロで画面が構成されている。
 イラン革命前後の動乱のなかでマルジの身近な人々を含めて多数が投獄・処刑の憂き目に遭い、イラン・イラク戦争の勃発により街が空襲にさらされ、また、宗教警察が目を光らせるなかで自由な文化の享受も抑圧される。このような、まさにモノトーンの色調にふさわしい時代背景が描かれているにもかかわらず、不思議なことに、やわらかくてほの明るい情感が全編を貫いていた。それはまず、自由で進取的な家庭に育ったマルジの持つ、ユーモアやしたたかさ、茶目っ気によるところが大きい。単に主人公がユーモラスだというより、作品の作り方そのものがユーモラスなセンスに裏打ちされているのだと言ってもいい。悲しい出来事はいくつも起こるが、さっと場面を切り替える。たっぷり長回しにして、観客にいっしょになって悲しみにひたってもらおう、などと欲をかくことを作り手が恥じているかのようである。
 マルジが祖母と一緒に映画館で『ゴジラ』を観る場面がある。建物が次々になぎ倒される。踏みつぶされる、と思って観ていたら人が踏みつぶされる。飲み込まれる、と思ったら本当に人が飲み込まれる。映画館を出て、「日本人はなんで切腹と怪獣の映画ばかり作るのかしらねえ」と祖母がぼやいたりもする(台詞の引用は記憶に頼っているので細部は不正確。以下同じ)。そんな場面があるかと思うと、街が現実に空襲の被害を受けて、がれきのなかで人が息絶えているのを目撃するという場面もある。これはユーモラスと言うには不謹慎なのでそうは言えないが、深刻なことをあえて深刻でなく見えるように描くところから、かえって出来事の重みが伝わってくる、ということもある。
 ウィーンに留学したマルジは、異国人としての疎外感にさいなまれるなか、パンク風の連中と仲間になる。そのうちの一人から、「イランでは本物の戦争が起こっているんだろ?」というようなことを訊かれて、戦乱の様子を答えると、「そりゃ、すげえ」という反応が返ってくる。いままさに祖国で続いている戦争の話が「そりゃ、すげえ」で片づけられるというのは、生真面目にとらえればショッキングなことのはずである。マルジも内心傷ついたかもしれない。だが、つらく重苦しい体験というものが、簡単に他者から受容されるはずもないものだと、作り手は知り抜いていたのに違いない。観客に対しても、「そりゃ、すげえ」という興味本位で気楽にこの映画を観ていてくれていいんですよ、という気配りがあり、それがユーモラスな描写や場面展開となって表れ出ている。それはいわば、人間の相互理解の壁にしたたか打ちのめされたうえでたどり着いた態度であるのかもしれない。
 留学先から帰ってきて無気力に陥ったマルジは、精神科医の診断を受けることになる。長椅子に横たわって話をするマルジの言葉に聞き入っている様子の医師は、実はカルテにただ落書きのような絵を書いている。そして話を聞き終えると、「なるほど。あなたは鬱病です」と告げる。ここには、辛辣な笑いの表現がある。相互理解の壁から生まれ落ちたユーモアというのは、こんな場面にも表れていると思う。
 最後、マルジはかつてなじめなかったヨーロッパの地へとふたたび旅立つ。パリのオルリー空港で乗ったタクシーの運転手に「どこから来たんです?」と尋ねられ、「イランから」と、マルジはごく当然のことをごくさりげなく答える。むろん、彼女が何か立派な人物になった、という結末ではない。ただ、自分はイランから来た、自分はイラン人だ、ということを言える、そのささやかなことを到達点として示すともなく示して、終幕となる。
 マルジのパリ行きと入れ違うようにして、祖母が寿命を迎える。マルジにとっては、たくましく、自由な心と愛嬌を失わず、「公明正大に」生きることを教えてくれた祖母。ブラジャーのなかに、いつでもジャスミンの花をいっぱいに詰め込んでいるというユニークな習慣の持ち主でもあった。黒地に白字のエンディングロールで、下から上に多数の人物名が流れていくのとすれ違いに、幾多のジャスミンの花が、上から下へと尽きることなくゆったりと舞い降りていく。その白い花模様が、この映画を観た体験として心のうちに静かに降り積もっていくようで、僕はずっとその花の動きを追い続けていた。

見世物小屋の蛇女

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071111見世物小屋1 071111見世物小屋2 071111見世物小屋3

 本日、見世物小屋を見物。
 新宿・花園神社では、十一月の酉の日(今年は二回)に酉の市の祭りがあり、きょうがその一回目。鳥居をくぐり、賑々しい屋台の並ぶ参道を歩くと、すぐに見世物小屋の呼び込みの声が聞こえてきた(写真左)。蛇女がいるというので、これは黙って通りすぎるわけにはいかないと足を止める。お代は出るときに払えばいいというから、するするっと幕をくぐってさっそくテントのなかへ(写真中)。
 さて、蛇女とはどういうものか。頭が女でしっぽが蛇か、それとも頭が蛇でしっぽが女か。どっちにしても得体がしれない。
 実際に現れた蛇女はといえば、赤いべべ着て顔を白く化粧し、爬虫類めいたひんやりとした美しさをたたえた年若い女性。胸元にかけた前かけには薄茶色のしぶきの跡が。手にしているのは首のもげた小ぶりの蛇。それが本物の蛇であることを知らしめるために、司会役のだみ声の女性が手前の観客たちに触らせてから、蛇女の手に戻す。蛇女、この首なし蛇を自分の顔のまえにぶら下げたかと思うと、ジャキッと爽快な音を立てて一口食いちぎった。蛇女は蛇女でも、食べるほうの蛇女。おそらく、この日最初に食いちぎったときには真っ赤な鮮血が飛び散って、それが前かけに薄茶色のしみとなって残っていたのだろう。
 それから、老婆がちり紙につけた炎を飲み込んだり、犬がハードル越えをしたり、双頭の仔牛のミイラや、一度に鶏を七羽食べるという大蛇(その場で食べて見せたわけではない)が出てきたりと、素敵な演目が続いた。年若い蛇女は、鼻から入れた鎖を口から出して見せるという驚愕の離れ業をも披露してくれた。
 この蛇女嬢、出番でないときには舞台のしたに立っていて、その様子がときおり僕の視界に入った。陶磁器のように無機的にすました表情を保っていたかと思うと、ふと顔の内側から人間らしい笑みが押し出されかけ、それを飲み込むようにまた無機的な表情に戻る、その移ろいがまた趣深かった。当人は終始無言だったが、司会役の女性のだみ声が言うところによれば、二年まえに初代蛇女の老婆の技芸に惹かれて入門し、二代目蛇女となって見世物小屋を廃業の瀬戸際から救ってくれたものらしい。年齢はいまだ二十一歳。これから数十年かけて芸と妖艶さにますます磨きをかけていってくれたら素晴らしい。
 お代を払ってテントをあとに(写真右)。「ここに日本人のふるさとがある」という惹句も伊達ではない。ちなみに今年二回目の酉の市は、今月二十三日。お時間と好奇心のおありのかたは、お立ち寄りあれ。

 * * *

【追記】
 当記事の筆者の本を、ついでにご紹介。どこかしら見世物小屋的なところのある小説を収めています。

 「渾沌島取材記者」を募集する三行広告にいざなわれ、青年は旅立った。旅路の果てに、青年はいかなる場所にたどり着くのか。「いいんだよ、これで。なくなったんじゃなくて、変化しただけ」

『こんとんの居場所』(山野辺太郎著、国書刊行会、2023年4月)

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誠実かつ清純な

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071017オセロー

 脳味噌が黒い雨雲になったかのように重苦しい。さいたま芸術劇場からの帰り道、電車に乗ってからもずっとこの感じが続いた。『オセロー』を観て、ずっしりと気の滅入る、やりきれない感慨を心に詰め込まれて持ち帰ってしまった。
 筋や人物関係を書き出そうとしてみたが、暗鬱なキーワードばかりが並ぶことになり、気が塞いできたので取りやめた。
 なぜオセローは、一番に信ずべき、誠実かつ清純な新妻デズデモーナを信じることができず、冷酷無比な策謀家イアゴーを信じてしまうのか。わけてもオセローとデズデモーナのあいだのディスコミュニケーション、意思疎通の断絶が痛々しく、二人のあいだを隔てている壁は何か……と思いは巡っていく。人種の違いが周囲からの孤立を生み、愛されることへの自信をオセローに持たせずにいるのか。しかし、人種の問題のみに集約されるものでもないだろう。最終場面のカタルシスのあとにも混沌と渦を巻いて残った重だるい感銘が、終幕から数時間を経てなお続いている。
 シェイクスピア原作、蜷川幸雄演出。出演は、オセロー役・吉田鋼太郎、デズデモーナ役・蒼井優、イアゴー役・高橋洋、ほか。
 (記事のタイトル、迷ったものの、とりあえず文中から一番きれいな言葉を抜き出しておくことに……。)

切実な幻想

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070822エレンディラ

 さいたま芸術劇場にて、『エレンディラ』観劇。
 因習につながれ、祖母の監督のもと、娼婦の生活を強いられるエレンディラ。彼女と出会い、恋に落ちるウリセス。彼は祖母を害してエレンディラを解き放とうとするが……。現実と幻想が継ぎ目なく混交した世界、幻想的な現実世界が続いていくが、最後、何が現実で何が幻想であったのかが明らかにされて以降の展開は圧巻。ウリセスの存在自体がエレンディラの描き出した幻想であり、彼女が愛に渇え、自由を望んだがゆえに形象化された者であった……と、僕は受け取った。生きがたきを生き延びるために幻想を産み出す者の切実な欲求が、そして彼女の置かれてきた苛烈な現実が、ウリセスの存在から逆照射されるように伝わってきて心打たれた。
 祖母役・瑳川哲朗の図太い存在感、ウリセス役・中川晃教の清澄な声、エレンディラ役・美波の毅然とした少女ぶりに惹かれた。
 ガルシア=マルケス原作、坂手洋二脚本、蜷川幸雄演出。

誘引されてアーデンの森へ

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070726お気に召すまま

 近ごろ、ボケが始まっている。季節的なもので、夏の暑さが去るとともに収まるものであればありがたい。
 直近のボケは、同じ演出家による同じ演目を、過去に観ていることを忘れてもう一度観に行ったことだ。幕が開き、二頭の馬(の役の人間たち)が出てきたところで、似た場面を見たことがあるなと感じ、登場人物の台詞を聞いているうちに、その感触はみるみる確信に変わっていった。蜷川幸雄演出、『お気に召すまま』。三年前の夏、さいたま芸術劇場で観ている。今回は、シアターコクーンにて。原作もかつて読んでいるし、シェイクスピアの喜劇といってもいろいろあるので、記憶がブレンドされてまだら模様になってしまっていたらしい。アーデンの森の不思議な魔力なのかもしれない。追放者の自由と恋の予感とに満ちたあの森はじつに楽しく、何度でもふらふらと呼び込まれてしまうようだ。
 ヒロインのロザリンド。この男装の若い女性を男性俳優が演ずるというねじれ具合がおもしろい。男性のふりをしながら女性らしい素性をちらちら覗かせてしまう役柄を、成宮寛貴が魅力的に演じていた。森の首領(前公爵)役の吉田鋼太郎も、懐深い人柄を滲み出す好演。
 この芝居の中で、アホウという台詞が何度出てきたかは数えきれない。阿呆(道化)的役どころの人物が、少なく見ても三人ほど出てくる気前のよさ。典型的な道化役はまだら模様の服を着るものだが、観客席にはまだらボケの男が、少なく見ても一人。アーデンの森の妖しい魔力で、またしばらく僕のボケは続いていくのかもしれない。

人形になる

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070714監督ばんざい

 北野武監督の『監督・ばんざい!』を観た。次の映画を撮ろうと悩む監督の試行錯誤の過程を、撮りかけて失敗に終わった作品の連鎖によって描き出した作品。撮れないのではなく、撮れば撮れるしそこそこ成功するだろうという結果が見えているものをわざわざ撮ってもしょうがない、という倦怠と風刺、型を壊して何が産まれるかという野心と探求心をギャグでくるんで提示している。
 一つ一つの作中作が失敗に終わるたびに挿入される、北野武に似せたハリボテ人形の自殺のイメージ。ギャグに見せているが背後には創り手の絶望が隠れている。しかし、ぬけぬけと縄を抜けて性懲りもなく次の試みへと進んでいく。「この人は都合が悪くなるとすぐ人形になる」という趣旨の登場人物の発言があるが、人形になるというのは生き延びるためのすべとして興味深い。
 終映近く、倒れたブリキのロボットから北野武演じる吉祥寺太が生まれ直すかのような場面がある。それまで、金正日を模したかのようだった吉祥寺太に、子供のようなあどけない表情が生じる。かと思えば、ほどなく小惑星が落ちてきて各作中作の登場人物もろとも皆吹き飛んで終わる。産まれ直しと自己否定の欲求のせめぎ合いの結果、どうなるのか。壊れた跡から何かが産まれてきそうな期待を抱きつつ、映画館をあとにした。

人生の祭典

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070517人生の祭典

 『ロストロポーヴィチ 人生の祭典』、アレクサンドル・ソクーロフ監督。渋谷のイメージフォーラムにて上映のこの映画、友人が字幕翻訳にたずさわったというのを聞いて、観に行った。ソクーロフ監督の映画は、劇的な展開を排し、一見淡々と繰り出される詩情ある映像のなかから、ある人生の軌跡をそこはかとなく浮かび上がらせる作風。近年何作か見逃していたが、友人からの知らせを契機に久しぶりに観た。
 先日亡くなったチェリスト、ロストロポーヴィチと、妻である元ソプラノ歌手、ヴィシネフスカヤを撮ったドキュメンタリー映画。夫妻の盛大な金婚式の祝宴の様子を土台に、本人と妻それぞれへのインタビューや、過去の演奏および出演作品、近年の活動の模様などを挿入しながら映画は進行していく。映像に見るロストロポーヴィチは天真爛漫、芸術の光に包まれた者の明るさがあるのに対し、一方のヴィシネフスカヤは重い情念の混沌を内に秘めているようで、対照をなしている。
 映画の最初、深いしわの刻まれた気難しげなヴィシネフスカヤの顔が注意を惹く。ソクーロフ自身がインタビュアーとなって切り込んでいき、また、過去や近年の映像が積み重ねられていくことで、彼女のしわに折りたたまれた屈託が次第に見えるようになってくる。金婚式の席上、彼女が見せた満面の笑みで映画は締めくくられる。ロストロポーヴィチの魅力もさることながら、ヴィシネフスカヤのしわが開かれていく過程、彼女の人間性が開示されていく過程をとらえた映画として、静かに迫ってくるもののある作品だった。

控えめな狼狽

投稿日:

070425東京タワー

 新宿にて時間が空いた折に、映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』観た。
 冒頭からしばらくは、ややぎこちない場面が続き、ナレーションとして挿入される原作の言語表現に映像表現のほうが押されているのでは、との感触をいだいた。ところが主人公の中川君の中学時代あたりから、場面が生彩を帯びてくる。大学時代に役者がオダギリジョーに代わると、上京青年の駄目っぷりに俄然リアリティーが増してきて、滑稽味と哀感の交錯する世界に惹き込まれていた。後半の母親役の樹木希林も達者で、大学卒業できないかもしれないとの電話を息子から受けたときの控えめな狼狽ぶりなど、実におかしかった。
 リリー・フランキー原作。松岡錠司監督。

恋という名のまわり道

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070328恋の骨折り損

 喜劇を要約することほど滑稽なことはないのだけれど、その滑稽なことをあえてすると、恋とはまわり道である、というのがこの劇『恋の骨折り損』の要諦ではなかろうか。
 言葉を欲望のとおりにまっすぐ通すことができないから、何かを直接伝える場合に比して何十倍も余分な言葉が生じ、あらぬ方向に逸れていく。
 喜劇の結末は(悲劇が主人公の死であるのに対し)主人公の結婚で締めくくられるのが古来の定型とされており、この劇でもそれを少しずらしつつ踏襲しているが、恋のプロセスというものが、すべからく喜劇的な性質を持っているいうことなのか。
 シェイクスピア劇の原文には韻文が多いが、欧米語の韻文のリズムを日本語に移すことはほとんど不可能だ。今回の演出ではところどころラップ調の語りを入れることで、言葉のリズム、欲望のリズムを舞台上に呼び覚ましていた。
 シェイクスピア作、蜷川幸雄演出、さいたま芸術劇場にて。

彼女の名はジャンヌ・ダルク

投稿日:

070222ひばり

 渋谷のシアター・コクーンにて『ひばり』上演。ジャン・アヌイ作、蜷川幸雄演出。主役は松たか子演じるジャンヌ・ダルク。彼女の異端審問裁判から火刑に至るまでを題材にした芝居。
 ジャンヌが神の啓示を受けてから戦いの先頭に立つまでの経過が劇中劇の形で示されるが、そこでの彼女の、人を動かし、行動に駆り立てる言葉の力がさえわたる。脚本も力強いし、それを生身の肉体に乗せた松の演技もまた鬼気迫っていた。
 罪を悔い改める形式を踏むことで一度は得られた、将来のささやかな幸福の可能性を最後に拒否し、自らの生命をも拒否したジャンヌ。この世のそのときどきの掟、この劇でいえば教会の仮構する秩序に従わず、自身の妄念に殉じることを意識的に選び取った彼女は、神懸かりというよりむしろ、自分が個人であることにもっとも誠実であったように思える。熱情とともにきわめて怜悧な正気(狂気ではなく)を兼ね備えた希有な存在として、彼女は舞台上に生き、死んでいった。最後を火刑で悲劇的に締めくくらずに、時系列をずらして王の戴冠の場面を持ってくる脚本の構成も秀逸。

 胸が震える、という慣用句があるけれど、文字通り、薄い胸板の筋肉が震えるほど台詞に心をえぐられる場面が何度もある――僕にとってはそんな観劇となった。




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