山野辺太郎のウェブサイト


鑑賞記録

映画・演劇ほか、作品鑑賞の記録 〔→目次

目のなかに残る色

投稿日:

 ポーランドのアンジェイ・ワイダ監督の遺作『残像』を観た。
 画家で教授の主人公ストゥシェミンスキには片足がなく、松葉杖をついている。草原で絵を描いている学生たちのところへ、彼はいかにしてやってくるのか。松葉杖を抱いて草原に横たわり、なだらかな坂を転がり降りてくるのだ。不自由な体を自由な心で包み込むようにして、彼は生きてきたのだろう。車座になった学生たちに、彼は残像について語る。残像は、ものを見たときに目のなかに残る色。その色は、見ていたものの補色になっているのだ、と。
 あるとき、アトリエで絵を描こうとしていた彼のキャンパスに、不思議なことが起こる。まだ真っ白だったキャンパスが、突如として赤に染まる。怪奇現象でもなければ幻覚でもない。第二次大戦後のポーランドに絶大な影響力を持ったソ連の指導者像を描き込んだ赤い垂れ幕が、ビルの屋上から垂らされた。それによって窓をふさがれ、差し込んできていた陽光が赤に変じたのだ。窓をあけ、垂れ幕を切り裂くストゥシェミンスキ。彼にとって、それは絵を描くうえで邪魔なものでしかなかった。物理的に光の色を変えてしまっただけでなく、思想的にも光の色を変え、事物の捉えかたを規定してしまうものだったから。
 ストゥシェミンスキの勤める大学を文化大臣が訪れ、社会主義リアリズム推進の方針を打ち出す演説をした。ストゥシェミンスキはそれに異を唱える。彼にとって、芸術の可能性を政治的な教化手段として狭めてしまうことは認めがたいことだった。その結果、彼は大学を追われ、芸術家団体の会員資格を失い、どうにかありついた広告ポスターを描く仕事も奪われ、画材を買うことさえ許されなくなる。
 単色に染め上げられ、異論が認められなくなってしまった社会のなかで追い詰められ、倒れ伏すストゥシェミンスキ。だが、彼の心のなかには赤の補色としての緑が、自由に転がり降りて学生と語り合った草原の残像が、いつでも広がっていたのかもしれない。
 妻、娘、そして女学生と、彼を取り巻く女性たちの存在も陰影に富む。彼女たちがストゥシェミンスキに惹かれたのも、そして去らざるをえなかったのも、彼がひたすら絵を描くことに没頭し、それ以外のものは失ってもしかたがないというかのごとき姿勢だったためではないか。彼にとって絵を描くことだけが、最期まで踏み外そうとしなかった、自由へと続く果てしのない道筋だったに違いない。

山林のオオカミたち

投稿日:

 「イタリア映画祭2017」の一環として上映された『幸せな時はもうすぐやって来る』(アレッサンドロ・コモディン監督)を観た。
 夜の闇のなか、何かから逃れるように、二人の若者たちが山林を疾走している。彼らは山中で無邪気に日々を過ごすうち、深い穴を見つけたり、水浴びをしたり、即席のワナをこしらえてウサギを仕留めたり、銃声を聞いて男がたおれている現場に出くわしたりする。そして二人の若者たちも、不意に銃で撃たれてたおれる。
 続いて、付近の村人たちがオオカミの伝説を語る場面が挿入される。オオカミが美しい牝鹿に惹かれたが、思いが実らないと、代わりに人間の女を探し歩いたという。
 その伝説の山林へと、若い女性が分け入ってゆく。彼女は穴を見つけ、そこをくぐって水辺に出る。水浴びをしていると、若者が一人現れる。彼女は若者と親密になったのち、仕留められた獲物のように、若者に運ばれてゆく。山林には、銃を持ったオオカミ狩りの男たちが入ってゆく。
 最後に、若者は刑務所にいる。そこへ面会に来たのは、あの若い女性のようだった。
 ストーリーのようなものは断片にまで寸断されていて、つなぎ合わせようとしても随所で矛盾に逢着する。むしろこの映画は、モチーフが変容しながら反復されることで展開してゆくように思われる。大きな流れとしては、「二人の若者」から「オオカミと牝鹿」へ、そして「若者と女性」へという二人組の変容があるだろう。映画の前半部では、「仕留められて腹を切り裂かれたウサギの死骸」から「銃で仕留められた男の死骸」へ、そして「二人の若者たちの死骸」へという連鎖のなかで若者たちの運命が決着する。また、冒頭の「闇夜を疾走する若者たちの衣服が青白く浮かび上がる場面」は、終盤で「オオカミ狩りにやってきた男たちのジャケットが暗闇でオレンジ色に輝く場面」に照り返されて、追われているオオカミとは、あの二人の若者たちのことではないかと気づかされる。
 観終えた映画をこうして思い返していると、僕自身もあの山林の奥深くにさまよい込んでしまったような奇妙な心地になってくる。

佇む女と佇む男と

投稿日:

140919郊遊

 台湾映画『郊遊〈ピクニック〉』(蔡明亮監督)は、動きのありそうな題名とは裏腹に、奇妙なほど辛抱強く、固定ショットの長回しで一つ一つの場面を構成し、人物も単調な動作を繰り返していたり、じっとしていたりして、台詞も極端に少ない。そんな切り詰められた表現のなかで、人物が強い存在感を放っていた。
 冒頭場面では、後景で子供たちが眠っているなか、顔面を長い髪ですっかりうずめた女が延々と櫛を使い、ときどき髪のあいまに顔を覗かせる様子が延々と映し出される。このいつ果てるともない反復動作のはざまに、倦怠とも悲哀ともつかない女の表情がほの見える。
 主人公は、高級住宅販売の立て看板を持って道路の中央分離帯に佇む中年男。絶え間ない車の流れに囲まれて、男は薄いビニールのカッパをまとい、吹きすさぶ風雨にさらされながら、ひたすら立ち続けている。その虚無に耐えることが仕事だというかのように。高級住宅をPRしながら、この男が住むのは無人の廃墟めいた建物の一角で、ここで少年一人、少女一人の子供たちとともに蚊帳を吊って寝ている。
 子供たちが、キャベツに顔を描いて人形のようにして寝床に寝かせておいた。これに気づいた男が突然、キャベツに布をかぶせて窒息させようとし、キャベツの目玉を突き、キャベツの口に噛みつき、キャベツの皮を引きちぎる。キャベツとの奇妙な格闘が、男の行き場のない鬱屈を浮かび上がらせる。
 男と子供二人は、大雨の夜に出会ったある女のもとに身を寄せることになる。冒頭場面の女と、途中に出てきて少女に関心を寄せるスーパー店員の女、そして大雨の夜の女は、別々の女優が演じているようなのだが、たたえている寂しさと子供への関心という点で一貫していて、どこか別の姿をとった一人の女であるかのようだ。
 身を寄せた女の家には風呂場もマッサージチェアもあるが、壁は廃墟以上に廃墟めいたでこぼこの鼠色をしている。家も病気になることがある、と女が少女に説く。壊れた居住空間は壊れた関係の写し絵のようでもある。男女二人が子供二人と同じ屋根のしたに集ってみても、そこに疑似夫婦のような心の結びつきが生まれたわけではなかった。
 廃墟のなかの広場めいた空間に、女が佇み、少し離れた斜め後ろに男が佇む最後の場面。驚異的な持続力で、この二人の立ち尽くす場面が続いていく。この男女がそれぞれどんな人生を歩んできて、どんな傷を負っていまこの場に立っているのか、観る者はごく断片的にしか、いや、ほとんど知らないといっていい。にもかかわらず、女が埋めがたい欠落を抱えて孤立していること、男が手を差し伸べようとしてその困難さに立ちすくんでいることが、二人のたたずまいから否応なく伝わってくる。その時間、その空間を取り巻いて、台北の街を行き交う車の喧噪が絶えず聞こえてきていて、非情にして日常の世界の手触りが感じられるようだった。
 渋谷のイメージフォーラムにて。

あんなカラフルな部屋で昼寝がしたい

投稿日:

140907思い出のマーニー

 自己を肯定できず、居場所もないように感じつつ、空想上の存在との結びつきを通してどうにか心を保ち、生き延びてゆく。そんな時期を経験した人は、少なからずいるのかもしれない。それは心の内側でひっそりと営まれるものであるがゆえに表立って語られにくいものだが、ときおりフィクションのモチーフとしてひょっこり姿を見せることがある。米林宏昌監督の『思い出のマーニー』もまた、「空想上の親友」をモチーフにした映画だといえるだろう。
 自分という存在がこの世界から受け入れられていると感じられず、孤立している中学生の女の子、杏奈。彼女はぜんそくの療養のため、札幌の養父母のもとを離れ、道内の小さな街に転地する。入り江の岸辺に建っている打ち捨てられた洋館で、杏奈は金髪の少女マーニーに出会う。
 杏奈とマーニーは、家族から、世界からこぼれ落ちてしまった者どうし、互いを認め、支え合う。果たしてマーニーとは、孤独な杏奈が生み出した空想上の存在だったのだろうか。だが、この空想めいた存在には現実的な種があった。かつて幼子だったころ、杏奈を受け入れてくれた人が、現実に存在していた。その失われた記憶への接近により、彼女はふたたび現実の世界へと結びついてゆく。
 転地療養の受け入れ先の家で、二階の窓をあけたときに広がる海と陸地のパノラマ。杏奈とマーニーが入り江を小舟で渡るとき、夜空にかかっている月。カラフルで日当たりのよい、お昼寝どきの杏奈の部屋。この映画には、観ているだけで心を波立たせてくれる光景がいくつもあった。

しいたげられた人生

投稿日:

131010ヴォイツェク

 赤坂ACTシアターにて、『ヴォイツェク』観劇。
 ドイツの作家ゲオルク・ビューヒナーによって遺された戯曲原稿は断片の状態であり、それをつなぎ合わせて一本化したものも、いちおうの本筋はありながら、断片としての奇妙なおもしろさをもった場面が多い。つなぎ合わせかたも一通りではない。そんなテキストであるだけに、十九世紀初頭の作ながら前衛的な演出と親和するところもあるけれど、今回の舞台は落ち着いた演出であったように思う。
 貧しい兵士ヴォイツェクには財産らしき財産もなく、大事なものといえば内縁の妻マリーと赤ん坊クリスティアンの存在のみ。忙しく駆け回り、妻子のもとでゆっくりする暇もない。尊大な大尉の髭を剃るヴォイツェクや、見世物小屋で見世物のように扱われるヴォイツェク、エンドウ豆だけを食べて尿を採られる実験台となったヴォイツェクなどの場面が挟まる。軍楽隊の鼓手長にマリーを寝取られたヴォイツェクは、がらくた売りからナイフを買って、湖の浅瀬でマリーを刺し殺し、自分も水のなかに沈んでゆく。しいたげられ、静かな狂気の内に幕を閉じる人生。
 ヴォイツェク役の山本耕史とマリー役のマイコが美しく凛然としていて、特にヴォイツェクは本来もっとくすんだ感じの人間なのではないか、という気もするが、そうではない感じの人間によって演じられているところに妙味があったようにも感じる。この配役ゆえ、「劇場から裏町へ出て、現実の世界を見よ。舞台上のまがいものの世界になれきった連中は、現実を見て『なんて平凡なんだ』と叫ぶだろう」という趣旨(記憶によるため、正確な引用ではない)でなされる口上役の言葉が活きる(ちなみにこの台詞は原作にはなく、同じ作者の『ダントンの死』から移してきたようだ)。
 音楽劇と銘打たれ、絶えず舞台脇のバンドの生演奏を伴って場面は進み、ときおり登場人物の歌唱が挟まる。なかでもヴォイツェクの狂気と倦怠のにおいをはらんだ曲が繰り返し歌われ、山本の張りのある歌声が際立っていた。演出・白井晃。

愛することと働くこと

投稿日:

130816風立ちぬ

 改めて思い返してみると、宮崎駿監督の映画では、主要人物たちがじつによく空を飛んでいる。『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『魔女の宅急便』『紅の豚』……。新作『風立ちぬ』の主人公のモデルは、零戦の設計者である堀越二郎。もちろん、空を飛ばないはずがない。
 冒頭、少年時代の二郎は、夢のなかで不思議な飛行機に乗って、広大な田園風景のなかを自在に飛びまわる。この疾走感、開放感が素晴らしい。
 子供心にいだいた飛翔へのあこがれは、飛行機を設計することへと形を変えて、大人になって具現化する。薄紫色のジャケットを着て、なかなかしゃれたメガネ男子風の装いながら、仕事には一心不乱に取り組んでいく。大人になった二郎の、落ち着いていて少しそっけないくらいの声がよいなと感じて、そういえば庵野秀明が担当しているということだったと思い出し、二郎の丸メガネが一瞬、庵野監督のメガネ姿にオーバーラップして見えてしまった。
 途中、堀辰雄の小説世界を彷彿させる、高原の避暑地で絵を描く女性との出会いの場面が挿入される。その女性、菜穂子との恋は静かに熟していき、彼女が結核を病んでいることを知ったうえで、結婚へと至る。
 堀辰雄の『風立ちぬ』になくて、宮崎駿の『風立ちぬ』にあるもの。それは、「働く」ということののっぴきならなさではないかと思う。「風立ちぬ、いざ生きめやも(生きなければならぬ)」という、堀辰雄の『風立ちぬ』に引用され、宮崎作品でも再引用されたヴァレリーの詩句がある。堀作品にあって「生きること」とは「愛する人とともにあることの幸福を感じること」として純化され気味であるのに対し、宮崎作品にあって「生きること」とは「愛すること」であるとともに「働くこと」でもあり、両者が同じくらい重みを持ったものとして存在している。二郎が片手で病床の妻の手を握りながら、もう片方の手で設計の仕事にいそしむ夜中の場面がある。どこか滑稽でもある二郎の後ろ姿は、愛することと働くことの重みを等しく感じながら生きる姿そのもののようにも見えた。愛することの結末がどうなろうとも、働くことの結末がどうなろうとも、人は愛し、働かなければならないのだろう。

暴虐のかなたに

投稿日:

121223アウトレイジビヨンド

 渋谷のシネパレスにて、北野武監督『アウトレイジ ビヨンド』を観た。
 前作『アウトレイジ』での状況を引き継いだ設定になっているけれど、独立した一編としても観賞できる。本でも映画でも、タイトルに『2』と入っていると、ああこれは前作の続きなんだなという気分になってしまうが、『ビヨンド』というのはむしろ前作を踏み越えていくという意志が感じられて好もしい。
 本作では、関東の一大暴力団勢力・山王会の内部での実権争いに関西の花菱会が絡んできて、両会の果てしなき抗争が続いてゆくさまが描かれる。野心だったり猜疑心だったり復讐心だったりとさまざまな負の激情を燃料として凄惨な殺戮が繰り広げられてゆくが、軽快なテンポでときに乾いたユーモアを交えつつ、組織というものがしばしば抱える権力闘争の実相を的確にえぐり出しているがゆえに、陰惨というよりむしろ爽快な印象すら受ける。殺戮というのを比喩的に捉えるならば、こういうことはさまざまな組織で日々密やかに勃発し、進展しているのではないか。政治の世界しかり、会社組織しかり……。
 あまた描かれる人物のなかでも、まず、刑事の片岡(小日向文世)の個性に目を惹かれた。小物ぶっていながら実は全てを把握しているかのように裏で糸を引いていて、にやりとへりくだった笑顔を見せつつ本心では笑っていない表情に、妙な存在感が滲み出ている。この男が個々のヤクザに巧みに働きかけて、彼らの野心や猜疑心や復讐心に火をつけ、抗争を過熱させてゆく。片岡の口から「フィクサー」と呼ばれる韓国人のボスが出てくるが、この映画のなかで真のフィクサーといえるのはむしろ片岡のほうだ。暴力団組織につぶし合いをさせることで勢力の弱体化を図るという、ある種、反則的な方法で冷徹に職務を推し進めているようでもあり、その過程で起こる抗争をどこかおもしろがっているようでもあり、この成果によって警察組織内部での自らの出世を図ろうとしているかのようでもある。この突き抜けた卑劣漢ぶりがかえって小気味よい。
 主人公の大友(ビートたけし)の存在感も別格である。彼もまた、片岡にうまいこと焚きつけられた一人ではある。だが、抗争にひたすら前のめりになってゆく他のヤクザたちとは異質な雰囲気がある。もう俺はいいよ、と言いたげな気だるい倦怠感をまといつつ、腐れ縁を絶てずに仇討ちの闘いに駆り出されてゆく。どこか冷めているようでありながら、大友にとってあえて守るに値するものがあるとすれば、それは人と人との信義であり、ヤクザの世界にもかつては底流していたはずの人情であるようだ。
 ラストシーンで、仲間の葬式に姿を見せた大友に、丸腰で式場に入っては危ないからと片岡がお節介を焼くそぶりで拳銃を手渡す。その直後、くすんだ銃声が何発か響く。片岡がついにおのれの策略に裏切られ、大友がついにヤクザの真の敵への復讐を遂げた瞬間であった。

恋する者のように

投稿日:

121029ライク・サムワン・イン・ラブ

 所用で訪ねたあるビルで、トイレに行ったら入り口に「Gentlemen」との表示があった。その珍しくもない光景をまえにして、ふと、他愛もない疑念が頭をよぎる。「Gentlemen」限定ということはジェントルでない粗野な男は入場できぬということで、それでは困る人もいるのではないか、と。しかし、ジェントルでない粗野な男とは、「Gentlemen」限定の表示があろうがおかまいなしに入ってしまうような男なのだろうから、けっきょく困る人もいないのだ、と腑に落ちた。この一連の自問自答のなかで、自分自身をちゃっかり「Gentlemen」の範疇に含めていたのが我ながら厚かましいところではある。

 その夜、渋谷のユーロスペースに行き、アッバス・キアロスタミ監督が日本を舞台に撮った『ライク・サムワン・イン・ラブ』の上映最終日、最終回に滑り込んだ。この映画では、老いたジェントルマンと若い粗野な男が登場し、一人の女性を巡る騒動が展開する。
 元大学教授で、いまは著述家として身を立てている老紳士の暮らす雑居ビルの三階に、夜、美しい女性が訪れる。彼女はどうやら派遣型風俗に類するアルバイトとしてやって来たらしい。雰囲気を出すために蝋燭で明かりを採り、彼女の出身地の名産であるという桜エビでだしを取ったスープなど用意していた老紳士だが、桜エビは食べられないのだと彼女の態度はつれない。背後に流れるジャズからは「like someone in love」のフレーズが聞こえる。翌朝、彼女を大学まで送っていった老紳士は、そこで彼女の恋人に出くわす。この若い男はDVの傾向があり、女性の行動を疑っている。老紳士は、彼女の祖父と誤解されるまま、若い男に落ち着き払った態度で人生を教え諭す。その日の午後、電話で助けを求められた老紳士は、殴られて路上にうずくまっていた彼女のもとへ車で駆けつけ、雑居ビルの自宅へ連れ帰る。老紳士が傷の手当てをしてやろうとしているところでインターホンが鳴り、若い男が追ってきたことがわかる。外で騒ぎ、老紳士を罵倒する若い男。うろたえる老紳士。窓ガラスをかち割られた瞬間、映画は突然の終わりを迎える。
 あれっ、ここで終わるの、というのがそのときの率直な感想だった。老紳士と女性を襲った危機はいかに収束するのか。そのことについて映画はいさぎよいまでに何も語らず、ざわついた不安な気分が残る。まだまだ中盤から後半に差しかかったくらいかという感覚でいたのだが、実際には二時間近くが経過していた。作中の人と人とのやりとり――電話の音声でしか登場しない女性の祖母や老紳士の弟なども含めて――のずれ具合がめっぽうおもしろく、それだけのめり込んで観ていたということでもある。
 不安の後で、僕の心に残ったのは、老紳士の姿の切なさである。余生にも近い穏やかな暮らしのなかで、若い女性を呼ぶような欲もある。ライク・サムワン・イン・ラブ――恋する者のように、彼は振る舞う。優しく、そしてぎこちなく、あくまで恋する者の「ように」。ところが終いには、彼は本物の色恋の修羅場のなかに突如として投げ出される。
 アルバイトのことを隠していた女性も、行きがかり上祖父を演じた老紳士も、嘘をつくことのできる人々である。容姿に優れつつも暴力的な気性によって観る者に倫理的嫌悪感を催させる粗野な男は、他者の嘘を許すことのできない正直者である。彼の自動車修理会社での如才ない働きぶりと、恋人や彼の気に障る人々に対する凶暴さとの二面性は、少なくとも彼自身にとってはどちらも嘘ではない正当な振る舞いなのだろう。虚実の適切な制御によって平穏な日々を送ってきた老紳士の生活空間が、容赦ない現実の猛威によって食い破られた瞬間、窓ガラスの割れる音が響き、ひび割れは観客の意識にまで及んだのだ。

少女の選択

投稿日:

120629別離

 Bunkamuraル・シネマにて、イラン映画『別離』(アスガー・ファルハディ監督)を観た。

 ある夫婦の離婚調停の場面から映画は始まる。妻シミンと夫ナデル、それぞれの言い分が早口にまくし立てられ、離婚は成立する。十一歳になる一人娘テルメーの親権の問題は未決着のまま持ち越されるが、ひとまず夫ナデルとともに家に残ることになる。
 妻シミンが家を出るのを機に、認知症を患う夫の父親の介護のために女性が雇われる。その女性ラジエーが流産するという事件を巡って、映画は展開していく。

 ナデルが、不誠実と見えたラジエーの勤務態度に怒ってマンションから追い出した。そのときにラジエーが階段に倒れ落ちたことが、流産の原因となったのか。十九週以上の胎児の死には殺人罪が適用されうる。ラジエーを妊婦と知っていながら突き飛ばしたのなら限りなくクロに近づく。ラジエーの夫は気が荒く、この事件にいきり立っている。形のうえでは離婚しながら、娘のことを思い、家に戻るつもりがないわけでもないシミンにとっても、ナデルが殺人の罪に問われていることは他人事ではない。
 尋問が進み、さまざまな人物の証言がなされるにつれ、事件の真相の新たな可能性が、観る者の脳裏に次々と浮かび上がっては消えていく。各人物の発言が、真実であるのか嘘であるのか。嘘であるとしても、その嘘をつくだけの動機がほの見える。それぞれの人物が何かから逃れようとして、あるいは何かを守ろうとして、懸命に振る舞っている。
 とりわけ健気なのが、離婚した夫婦の娘テルメーだ。少女ながらいつも冷静で聡明さを感じさせる彼女は、父であるナデルの発言の嘘を見破り、真実を話すべきだと勧める。だが、いざ自分が証人として呼ばれると、彼女自身も嘘をついてしまう。それは、父が罪を着せられることを避けるためであるとともに、そのさきに父と母の復縁があることを願ってのことだ。
 けっきょく真相らしきものとして、ナデルの行為が原因だったわけではないということが明らかとなり、事件そのものは幕引きとなる。

 しかし、まだ決着のついていない事案が残っている。テルメーの親権の問題だ。父と母、どちらのもとで暮らしていくのか。それを彼女自身が選択することになっている。調停者のまえで、もう決心はついていると彼女は告げる。だが、どちらを選んだのかは、なかなか言い出せない。そもそもどちらか一方を選ぶことが彼女の本当の望みではないことを、観客は知っている。にもかかわらず、彼女はいったいどちらを選んだのか。その答えは明かされぬまま、映画は終わる。少女の言いしれぬ悲しみが、観客である僕の心に重く残された。

魂の探索、高揚する肉体

投稿日:

120619ファウスト

 アレクサンドル・ソクーロフ監督の『ファウスト』を観た。ゲーテの『ファウスト』を下敷きにしながら、自由な翻案が施されている。銀座のシネスイッチにて上映。

 死体を解剖し、魂の在り処を探ろうとするファウスト。暗闇にうすらぼんやりと浮かび上がる肉色の臓物らしきものの場面から映画は始まる。肉の過剰と魂の不在。それがこの映画の基調をなしている。
 死体解剖や肉体治療の場面のなかで、食べるという行為が描かれる。乱雑に、薄汚く、ときに手づかみで。食欲の源である肉体というものの汚らわしくて猥雑な生命感を際立たせるかのように。

 石造りの家に、崖の岩肌の目立つ町並み。道を行く葬列の黒装束の人々。無彩色の暗鬱な色調が画面の中心を占めている。それゆえに、たとえば地下の巨大な洗い場で洗濯をする女たちの白ずくめの装いがひときわ鮮やかに感じられ、ファウストが見初める少女マルガレーテも、そのまばゆい白さのなかに登場する。この場面では、原作の悪魔メフィストフェレスにあたる高利貸マウリツィウスが、肉粘土をこね合わせたようなグロテスクな裸体をさらして水浴びするが、下腹部がつるりとしている代わりに尻のうえに小さな性器のようなしっぽ(あるいは、しっぽのような性器)が生えている。食欲と並んで性欲の源でもあるはずの肉体が、高利貸の職業的金銭欲によって奇妙にねじ曲げられてしまったようでもある。

 ファウストは、酒場での乱痴気騒ぎのなかで、誤ってマルガレーテの兄を刺殺してしまう。そのことを伏せて、償いの意識を持ちながら、マルガレーテと近しくなるファウスト。だが、真相をマルガレーテに密告する者がある。
 マルガレーテがファウストの部屋へやってくる。訪問の目的は、兄を刺殺した犯人はあなたではないのか、と問い質すためだった。しかし彼女はなかなか用件を切り出せない。身にまとったかさばるスカートをわずらわしげに振り回すマルガレーテの無邪気そうでいながら誘惑的な態度。ベッドのうえに座ってファウストを見つめ、ファウストもまた彼女を見つめる。何も起こっていないのに何かが起こった以上の官能を漂わせる時間が続く。ついに彼女が用件を切り出し、ファウストは事実を認める。

 事実の露見に憔悴しつつ、ファウストは、マルガレーテと一夜を過ごしたいという望みをマウリツィウスに持ちかけ、魂と引き替えに、という契約書に署名する。臓物をかき分けてもどこにも見当たらなかった魂と引き替えに……。
 思いを遂げるらしき暗示的な場面を経て、ファウストはマウリツィウスに殺伐とした岩山へと連れ出される。契約に従って魂を奪われるべきファウスト。だが彼は、契約書を引きちぎり、マウリツィウスに小岩をいくつも投げつけて埋もれさせ、得体の知れない生命の高揚感にいざなわれるまま、果てしなく続く岩と雪原の光景へと解き放たれたように歩み出す。"Dahin, dahin! Immer weiter!(向こうへ、向こうへ! いつまでもずっと!)"という力強い雄叫びを後に残して。魂とは、不可視の流れとして体内にみなぎり肉体を高揚させる生命感の別称であったのかもしれない。

ソウルにて、鈍重に、寡黙に

投稿日:

120515ムサン日記

 渋谷のシアター・イメージフォーラムで『ムサン日記~白い犬』(パク・ジョンボム監督)を観た。
 受付に「ムサン日記――主人公スンチョルと同じくおかっぱ頭の方は割引料金1500円」というような貼り紙がしてあって、館員もさりげなく草野マサムネ顔負けのおかっぱ頭をしている。料金を払うべく「ムサン日記」と言うと、「一般料金でよろしいですか?」と館員に確認されたが、「僕、おかっぱじゃないですよね?」と問いただすまでもなく、おとなしく一般料金を払う。学生に見えたというならそれはそれでけっこうなのだけど。

 『ムサン日記』は、ソウルに暮らす脱北者を主人公に据えた韓国映画。ずんぐりした猫背の体躯におかっぱ頭のスンチョルは、ポスター貼りなどの仕事を満足にこなせず、社会の片隅でしいたげられるような毎日を生きている。その鈍重で寡黙なたたずまいが、観客としての僕を惹きつけた。
 スンチョルと同居する詐欺師紛いのギョンチョルとのあいだの、寂しい者同士、身を寄せ合いながらも反目せざるをえない関係のありかたも切ない。映画の冒頭近くで、ギョンチョルがスンチョルのために赤いハート型の枕を買ってきてやる(あるいは盗んだものかもしれない)ところなどは、荒涼とした生活空間に温かすぎるくらいの色彩を添えるものだった。スンチョルが住み処へ連れ込んだ白い捨て犬に対してギョンチョルがいだいた反発は、一種の嫉妬であるといえなくもない。
 白い犬のほか、スンチョルが多少とも心をひらいた相手として、ギョンチョル、後見人のような立場のパク刑事、それにカラオケ店で上司となる女性のスギョンがいる。誰に対しても、距離感を縮めているときであってもスンチョルは笑顔一つ見せることがなかった。白い犬に対してさえも、ほとんど。
 スンチョルが熱心に通う教会、そしてそこで歌われている賛美歌。それらは、誰もスンチョルを救うことはできないということを逆説的に突きつけているようでもある。パク刑事に連れられて訪れた、悩みを語り合う教会での集いで、北朝鮮で空腹ゆえに人を殺したという過去を突然告白するスンチョルは背中越しのアングルで映され、まるで観客である僕自身が告白を始めたような驚きを伴う。背中越しといえば、ラスト付近、カラオケ店の仕事でビールの買い出しに出たときのスンチョルの後ろ姿は、いつ背後から誰かに殴りかかられるかという不穏さに満ちていて怖いほどだった。実際には誰からも殴りかかられはせず、ただ、一つの喪失に立ち会うことになるのだが……。

コロッケを差し出す

投稿日:

111107コクリコ坂から

 宮崎吾朗監督『コクリコ坂から』を観た。都内の映画館ではほとんど上映を終えていて、川崎のチネチッタまで出向くことになった。どうせならば映画の舞台である横浜まで行きたいところだったのだけど。
 吾朗監督の映画は、『ゲド戦記』に続いて二作目ということになる。一作目では、荒いという印象があった。映像が荒いし、心理描写が荒い。でも、その荒いと感じられるところも含めて、僕はわりと好感をもって観た。そして駿監督の作品にはない、病んだ感じが前面に出てくるところも、腑に落ちるものだった。
 さて、今回の二作目。映像は荒くなかったが、心理描写はやはり荒い。ぶっきらぼうというべきか。しかし、やはりそこがいい、とも思う。観ているこちらが感情の空白を想像で埋めていく作業が生じ、結果として作品世界に入り込むことになる。この映画には、ずいぶんときめいた。男の子(俊)がコロッケを買って、「食えよ」と女の子(海)に差し出すところなど、よかった。取り壊しの危機にある部室棟の魔窟的な雰囲気なんかもおもしろかった。ただ、『ゲド戦記』でもあったのだけど、主人公が非常に大粒の涙を流す場面があり、こういう理由で泣いているのだろうなと考えれば察しはつくのだけど、考えた分だけ少し置いて行かれた気分になる。そうはいっても、全般にからっとして、さわやかな映画であった。

男と女、虚構と真実

投稿日:

110403トスカーナの贋作

 『トスカーナの贋作』(アッバス・キアロスタミ監督)を観に、渋谷のユーロスペースへ。

 講演に来た作家の男と、それを聞きに来た女。二人の関係の不確かさが、この映画を貫いている。
 男はイギリス人の作家であるらしく、芸術における贋作の意味について書いたエッセーで賞を取り、イタリア・トスカーナの地に講演に招かれた。女は子供とフランス語で会話しているからフランス人と思われるが、イタリアで暮らし、骨董品の店を持っている。
 女は男を自分の店に招き、そこからドライブに誘う。男は帰りの電車の時間を気にしているが、誘いに応じる。その道中、立ち寄る先々でのやり取りから、二人は知らない間柄ではないのではないか、と観る者に感じさせる。喫茶店の女主人に、二人が夫婦であると「誤解」されたのを機に、あたかも実際に夫婦であるかのようなやり取りを始める。しかし、それは夫婦のふりなのか。二人は実際、かつては夫婦だったのではないか。いや、いまでも夫婦で、夫が家になかなか寄りつかなくなっているのではないか。そんなふうにも感じさせる。最後に、男が帰りの電車のことを言うところで、やはり二人は夫婦ではなかったのかな、でも……と、二人の関係は判然としないまま終わる。
 二人の会話は、英語、フランス語、ときにはイタリア語と切り替わり、それによって二人の距離感も微妙に変わり続ける。あたかも、二人のあいだに――男と女のあいだに――ぴったりの共通言語などないかのように。二人のいだく夫婦観の溝は、ささやかなようで深い。男にとっては仕事があって家庭があって、前者に比重を置きつつも両者のチャンネルを切り替えながら生きている。女にとって夫婦生活とは――通りすがりの旅行者から男が受けた忠告に従うなら――なにも大仰なものではなく、休みの日にただ並んで歩く、そして何かをともに観て、感慨を共有する、そうしたことがだいじなのだ。
 美術に造詣の深い男は、女に連れられて、新婚旅行で泊まったという宿を訪れ、窓からそとを眺めるが、かつて見ているはずの美しい光景を、覚えていないという。彼にとって、仕事で携わる美術品に比して、新婚旅行で見た光景などは記憶するに値しないものだったのだとしたら、女にとっては、やるせないことだろう。いや、男が本物の(元)夫ではなく、ただ(元)夫のふりをしているだけだとしたら、来たこともない新婚旅行の光景を覚えていないというのは当然のことなのだが、虚構の夫であるにもかかわらず、夫というものの本質を露呈してしまっていることになる。
 二人の夫婦関係は、虚構であるかもしれないからこそ真実を鮮明に浮き彫りにするようなところがある。虚構によって真実を照らす――これは、すべての芸術に共通する原理であるともいえるし、キアロスタミはこの原理を意識的に可視化してみせながら作品世界を構築する、たぐいまれな創作者である。

台北に散る真っ赤な桜

投稿日:

110127モンガに散る

 シネマート六本木にて、台湾映画『モンガに散る』を観た。
 一九八〇年代の台北の繁華街モンガを舞台にした、青春ヤクザ映画とでもいうべき作品。気弱そうな主人公の高校生・モスキートが、不良集団に迎え入れられて義兄弟の契りを交わし、ヤクザ組織の末端で、生彩あるチンピラ暮らしの日々を重ねる。序盤では、狭い街なかでの大勢入り乱れての乱闘騒ぎなど、コミカルで活気に満ちた場面が続く。モンガでは、主に二つの組織が争ったり手を結んだりして均衡状態を築いていたが、そこに大陸者の勢力が割って入り、均衡が崩れる。五人の義兄弟集団のなかでもっとも信義に厚いかに見えたモンクの裏切りにより、ヤクザ組織の親分が殺され、義兄弟たちも互いに殺し合うまでの惨劇に立ち至る。
 モスキートは、義兄弟の絆のなかに自分の居場所を見いだし、たくましさを身につけてゆき、絆を守るために裏切り者と闘うことになる。そして、裏切ったモンクのなかにも絆の片鱗が残っていたことに気づきながら死んでゆく。死に顔に浮かんだ微笑には、絆は守られた、という安堵が現れていたのだろう。しかし、モスキートやモンクの死によって、信義で結ばれた義兄弟の絆は、守られたと同時に取り返しのつかない形で消え失せてしまった。絆というのは、モスキートと娼婦シャオニンとの半プラトニックな関係にもいえることだ。人と人とが無条件に信頼し合う結びつき、そんな絆というものが、命を賭しても守りたいものであるとともに、もとから幻想であったかのように脆いものでもあるというところに、哀切なものがあった。
 父の形見としてモスキートの部屋に貼られているのが「富士山と赤い桜」の絵ハガキだったり、ヤクザの親分の名前が「ゲタ親分」(原文でも「Geta老大」とあり、Getaはおそらく外来語としての「下駄」なのだろう)だったりするところには、日本のヤクザ映画へのオマージュが埋め込まれているようにも感じられた。日本人にとって桜の色といえば、ソメイヨシノの白に近い薄ピンクということになるけれども、モスキートたち義兄弟が実物を見たことがないという桜、絵ハガキに出てきてエンディングロールでも散ってゆく桜が、血しぶきのような深紅であったのは鮮烈だった。
 モスキートを演じるマーク・チャオ(趙又廷)の眉の太い純情青年ぶりもよかったし、モンクを演じるイーサン・ルアン(阮經天)の坊主頭の精悍さもまたよかった。監督は、ニウ・チェンザー(鈕承澤)

南京の夜、東京の夜

投稿日:

101207スプリング・フィーバー

 中国映画『スプリング・フィーバー』(ロウ・イエ監督)を観に、渋谷のシネマライズに出かけた。
 南京の先鋭な都市生活を背景に、男と男、男と女の体のつながりが、乾いたタッチで描き出される。画質の荒い小型カメラの始終やむことのない手ぶれ感が、観る者に目まいを引き起こすようでもあり、尾行、盗撮、窃視のごとき後ろ暗さをいだかせもする。事実、尾行の場面からこの映画は始まったのだった。感情をそぎ落とした肉体主導の関係が目まぐるしくも即物的に展開するなか、その裏に潜む孤独の痛みが、ところどころで鮮烈に溢れ出る。主人公役のジャン・チョンは、尻上がりに色気を増していったように思う。探偵役のチェン・スーチョンも、その恋人役のタン・ジュオも、魅力があった。
 乗り物酔いにも似た心地悪さとともに、どこか突き抜けた人間関係の新境地を目の当たりにしたような爽快さをも覚えた。映画館を出ると、賑やかな東京の夜の雑踏があった。

角砂糖を借りに

投稿日:

101113借りぐらしのアリエッティ

 池袋のシネマ・ロサにて、『借りぐらしのアリエッティ』(米林宏昌監督)を観た。
 宮崎駿監督でないジブリ作品には、重厚な大作というより、小粒ながらきらりと光る佳品という印象のものがままある気がするけれども、本作でもそうした感じを受けた。
 角砂糖一個を「借り」に小人たちが人間の家に乗り込んでいく、というのがちょっとした冒険になっているという趣向が楽しい。主人公である少女アリエッティが病弱で聡明そうな少年ショウ(翔)に寄せる恋心の切なさも鮮明に胸に伝わってきた。映像は素朴でローテク感の漂うものであり、バッタの躍動感などもよくて、心なごませるものがあった。
 人間にとって自然と調和しながら慎ましく生きていくことが大事だけれどもそれが難しくなっているのではないか。そんなテーマが作品の基底にあるように感じられた。
 赤いクリップで髪を結わえ、待針を剣代わりにスカートに差して毅然とした少女の勇姿もよく、髪をほどいてくつろいだときの少女の姿とのギャップもまたよく、同族の野蛮そうでぶっきらぼうな少年スピラーと少女との新たな関係の萌芽を感じさせるエンディングを観て、すがすがしく映画館をあとにした。

池袋で乱暴狼藉を目撃

投稿日:

100814アウトレイジ

 池袋のシネマ・ロサにて北野武監督『アウトレイジ』観劇。
 ヤクザ組織の内部抗争における暴力と死の連鎖を描いた作品だ。死にまつわる湿った情念を排し、組織のなかに配置された人間たちにどのような力学が働き、破壊作用が引き起こされてゆくのかを冷徹に、かつ痛切に描き取っている。
 冒頭、駐車場にたむろする大勢のヤクザたちの黒ずくめの立ち姿が、シネマスコープの横長の画面にパンしながら長回しで映し出される。この場面がすでに、個としての人間ではなく、人間たちの組織を撮った映画だということをよく暗示している。
 抗争の発端は、組織の大ボスが部下の中ボスに対して抱いた小さな嫉妬。この中ボスが他のボスと兄弟分のつきあいをしているのが気に入らないというのだ。中ボスは、大ボスの顔を立てて兄弟分との仲の悪さを演出するため、子分の小ボス(ビートたけし演じる主人公の大友)に命じて兄弟分のグループとのあいだにいざこざを起こさせる。そのいざこざが憎悪を生み、そこに出世欲や金銭欲がからんで、組織のなかを流れる暴力のエネルギー量は増大し続け、男たちは倒し、倒され、組織は半壊に至る。しかも警察組織の一部までもがこのヤクザ組織と手を結んでいて、単なるヤクザ界の内輪もめにとどまらず、より普遍性をもった辛辣な組織論が具現化されているかのようだ。
 背広の黒にワイシャツの白、事務所のコンクリートのグレーと、モノトーンが画面を支配し、そこに血しぶきの赤が入り交じる。男たちの、浅知恵に酔って自滅する愚かさ、暴力的だが組織の力学に操られているという点での本質的な無力さが、にもかかわらず、ある種のひんやりとした美しさを伴って画面上に現れているさまは奇跡的である。
 ビートたけし演じる小ボス大友の哀感と気迫。小日向文世演じる刑事片岡のひょうひょうとした卑劣漢ぶり。杉本哲太の若頭小沢は、じつに渋い男前。組織を描いて、なおかつ個々の役者の存在感もそれぞれに光っていた。

遺された表情――古屋誠一写真展

投稿日:

100627古屋誠一写真展 100627クリスティーネ

 恵比寿の東京都写真美術館に出かけ、写真展「古屋誠一 メモワール.」を観た。
 百余点に及ぶ展示写真の多くは、古屋氏の妻であるオーストリア人女性クリスティーネを被写体としたものだ。
 たとえば、こんな写真がある。倉庫のような殺風景な空間の一角に、クリスティーネがたばこを片手にしゃがみ込んでいる。カメラを見上げたその表情は、なにげなくくつろいでいるような、自然なものだ。それとほとんど同じ構図の写真がもう一枚ある。こちらは、表情が一変している。苦しみとも、悲しみとも、怒りともつかない、あるいはそれらが複雑に入り交じった表情が、彼女の顔に浮かんでいる。(これら二枚の写真を図録より引用。写真右。このサイズでは、なかなか表情はわかりづらいかと思うけれど。)
 二枚の写真に写ったたばこの長さがほぼ同じであるため、これらがごく短い時間のうちに、せいぜい数十秒程度のうちに連続して撮られたものだとわかる。この二枚の写真のあいだに、何事があったのかはわからない。彼女の脳裏に蘇った何らかの記憶がこのような表情を強いたのか、もしくは撮影者である夫とのあいだになんらかの感情的なやりとりがあったのか、それとも……。彼女のとなりに転がっているのはマーガリンの段ボール箱だが、無論、マーガリンと彼女の感情とのあいだにはなんの関係もないことだろう。とにかく、観客である僕たちは、その表情の原因、理由を知ることはできない。
 小説や映画、演劇などで人物の感情が表現されるときには、その前後で必ずといっていいほどその感情の原因、理由が提示される。僕たちは原因や理由を、つまりは感情の背後にある物語を知って、人物の感情に納得したり、同情や共感を寄せたりする。絵画や写真など、時間軸のない表現手段においても、その原因となる状況が同じ画面内に写し込まれていれば、僕たちはそこから人物の感情の由来を知ることができる。
 だが、このクリスティーネの(二枚目の)写真には、ただ、表情だけがある。それも、著しく強く、複雑で名づけがたく、観る者を惹きつけ、困惑させる表情。感情自体の磁力によって共感を呼び寄せつつ、深部への進入を拒む孤独の様相を呈してもいる。
 彼女は俳優になることを目指して学校に通ったこともあったというが、その夢は果たせなかった。彼女は物語を伝える役目には向かなかったのかもしれないが、夫の被写体となることで、得体の知れない感情そのものを、まがまがしいまでの力強さでフィルムに定着させ、観る者に謎を投げかけ、答えのない問いを発し続けることに成功した。
 クリスティーネは大学生だった一九七八年に古屋氏と知り合い、同年結婚。一九八三年から精神的な病の発作に見舞われるようになり、一九八五年、自らの手で命を絶った。そして古屋氏の手元に、僕たち観客のまえに、彼女のこの上なく不思議で、この上なく豊かな表情が遺された。

渋谷にて、ハンマーで殴られる

投稿日:

100415息もできない

 渋谷のシネマライズで上映の韓国映画『息もできない』(ヤン・イクチュン監督)には打ちのめされた。
 この映画は、借金の取り立てなどを請け負うヤクザ的な一団に属する主人公サンフンと、彼に偶然出会った負けん気の強い女子高生ヨニとのかかわりを主軸とした一篇だ。
 サンフンは、色黒、短髪、チョビ髭のイモくさいなりに色気ある風貌のあんちゃんであり、何かにつけ手が出る、足が出る、粗暴極まりない男である。だが、粗暴さの鎧のうちに隠し持った純真さが、幼い甥っ子にかまけるところなどに、ときおり露呈する。彼は、父の家庭内暴力のために妹と母を亡くすという過去を背負っており、暴力への憎しみをいだいていながら、彼自身、暴力によってしか身を守れない、身を立てられない、という矛盾のなかに生きている。
 ヨニは、観る者の第一印象として、女の子ながら、ふてぶてしいとかたくましいといった言葉が似合う人物だ。彼女は、家庭内でも父や兄の暴力にさらされていながらも、暴力に屈しない、毅然とした強さを持つ女性である。サンフンがヨニに対して心を許してゆくのは、ヨニが自分の暴力性を跳ね返してくれる、粗暴さの鎧など役に立たないと教えてくれる存在だからなのかもしれない。
 暴力はこの映画に満ち満ちているが、反面、性的な要素はほとんどない。サンフンとヨニのあいだに成り立とうとしていた関係も、男と女の関係というより、仲のよい家族のきずなのようなものであり、それは彼らが現実の家族のなかで得られなかったものだ。二人は、互いに惹かれるものがありながら、ぐっと関係を近づけることも、自身をすっかりさらけ出すこともできない。なかでは、サンフンが、自殺を図った父を病院に運び込んだあとで、ヨニを漢江の川辺に呼び出し、俺は親父に献血をしてきたと告げ、ヨニの膝の上に頭を横たえて泣くところなど、サンフンがもっとも裸に近づいた、鎧を脱いだ場面だろう。そんなときでも、ヨニは自分の素性を明かさず、そこそこ恵まれた家庭環境に退屈しきっている女子高生といったふうを装い続けているところなど、けなげで切ない。
 この映画、北野武の作風を彷彿とさせるところも少なくない。暴力を基調とし、それも、軽く蹴っているような動きや音がかえって凶暴さを感じさせるところなど。また、場面の切り替えの仕方などには、笑いのセンスも垣間見えた。サンフンが子分と一緒に借金の取り立てに行って、相手をボコボコにする場面のあとに、その家で出前の飯を食っている場面が続く。しかも、取り立てられた男だけはコーンフレークを食べている。
 しかし、なんといってもこの映画の美質は、人物の存在感にある。たとえば、父への憎しみに駆られ、おまえを殴る前に酒を飲ませるのだと言って、焼酎を飲め飲めと父に強いる場面でのサンフンの瞳の異様な輝き。狂気じみた凶暴さと、傷つけられた子供の純粋さとが一体となって、この瞳の美しい光のなかに宿っていた。
 脇役たちの存在感も見事なものだ。ヤクザ的な一団のボスであるマンシクが、事務所の机に置かれた鉢植えの葉っぱに霧吹きで水をかけている。それだけの行為にも、マンシクという男の根にある好人物ぶりが十全に表れている。
 懐かしさと活力を感じさせるソウルの街の情景もいい。サンフンが、ヨニと甥っ子とともに街で過ごしている、おそらくはサンフンにとって幸福であるはずの場面を、遠くから、不安定に揺れるカメラワークで切り取り、さらにどこか寂しげなBGMをかぶせているところなどは、はかなさを感じさせて巧みである。
 絶え間ない暴力の連鎖のなかで、サンフンは子分の一人からハンマーで殴られ、命を落とすことになる。こうなるのも必然、と思わされるが、惜しむべき男を失ってしまった、とも思わされる。
 観客の一人であった僕もまた、ハンマーで殴られたような強烈な衝撃を引きずりながら、実際足元がおぼつかないほどの足取りで、渋谷の街を歩いていった。

 ***

 実は、この文章を書いてから、人名などを確認するため、パンフレットを初めて開いた。そこで分かったこと。主人公を演じていたのは、監督自身だった。脚本も監督が書いたとのこと。その多才ぶりに、あらためて感嘆。

上半身がすっぽり入る魚のかぶりもの

投稿日:

090122冬物語

 『冬物語』観劇。
 冒頭、劇はシチリア王レオンティーズが妻ハーマイオニの不貞を疑うところから始まる。不義密通の相手と目されるのは、レオンティーズの幼なじみ、ポリクシニーズ。彼と妻との親しげな様子から、レオンティーズは無実の妻に対する邪推に取りつかれる。これが、以後展開する事件の発端となる。
 この冒頭の場面にどうリアリティを持たせ、説得力を付与するかは、匙加減の難しそうなところだ。レオンティーズの人物像として、嫉妬深さや思い込みの激しさを際立たせるか。それとも、ハーマイオニの人物像として、貞淑であるにもかかわらず妙ななまめかしさを漂わせてしまうような二面性を打ち出すか。今回の上演は、前者の方向性に近い感じだが、観ていてのっけから主人公の狂気の渦に引き込まれるというよりも、唐沢寿明演じるレオンティーズの狂気が、じわじわと明らかになって迫ってくるような感じを受けた。田中裕子演じるハーマイオニは、あくまで清楚に気品を保っていた。あるいは、彼女が観客にさえ疑惑をいだかせるほどのなまめかしさを振り撒いてしまうということがあってもおもしろかったと思う。
 細部では、子役の上半身がすっぽり収まるナンセンスすれすれの魚のかぶりものに惹かれた。人物では、長谷川博己演じるフロリゼルの颯爽とした熱情に魅せられるものがあった。
 シェイクスピア原作、蜷川幸雄演出。さいたま芸術劇場にて。




yamanobe-taro.jp