
『冬物語』観劇。
冒頭、劇はシチリア王レオンティーズが妻ハーマイオニの不貞を疑うところから始まる。不義密通の相手と目されるのは、レオンティーズの幼なじみ、ポリクシニーズ。彼と妻との親しげな様子から、レオンティーズは無実の妻に対する邪推に取りつかれる。これが、以後展開する事件の発端となる。
この冒頭の場面にどうリアリティを持たせ、説得力を付与するかは、匙加減の難しそうなところだ。レオンティーズの人物像として、嫉妬深さや思い込みの激しさを際立たせるか。それとも、ハーマイオニの人物像として、貞淑であるにもかかわらず妙ななまめかしさを漂わせてしまうような二面性を打ち出すか。今回の上演は、前者の方向性に近い感じだが、観ていてのっけから主人公の狂気の渦に引き込まれるというよりも、唐沢寿明演じるレオンティーズの狂気が、じわじわと明らかになって迫ってくるような感じを受けた。田中裕子演じるハーマイオニは、あくまで清楚に気品を保っていた。あるいは、彼女が観客にさえ疑惑をいだかせるほどのなまめかしさを振り撒いてしまうということがあってもおもしろかったと思う。
細部では、子役の上半身がすっぽり収まるナンセンスすれすれの魚のかぶりものに惹かれた。人物では、長谷川博己演じるフロリゼルの颯爽とした熱情に魅せられるものがあった。
シェイクスピア原作、蜷川幸雄演出。さいたま芸術劇場にて。

シェイクスピア・作『から騒ぎ』観劇。
この劇、「心」と「言葉」を切り離してモンタージュする実験としての一面がありそうだ、と受け止めながら僕は観ていた。
「心」で感じたことや思ったことが「言葉」となって出てくる、というのは一見あたりまえのようなことである。たとえば、「好き」と感じる心によって、「好き」という言葉が口からこぼれる。このとき、心のほうが主体であって、言葉というのは心が押し出すボールのようなものだ。
けれどもこの劇を観ていると、本当は言葉のほうが主体であって、心というのは言葉によってあっちこっちへ突き動かされている頼りない存在に過ぎないように感じられてくる。
この劇では、「心の持ち主」と「言葉の使い手」とが切り離された状況が何通りか描かれる。つまり、「自分が思ったことを自分自身が言う」のではなくて、「自分が思ったことを他人が代わりに言う」とか、「自分が思ってもいないことを他人が代わりに言う」といった状況だ。
たとえば、クローディオはヒアローに恋をしているのだが、内気なクローディオ自身に成り代わってドン・ペドロが仮面舞踏会の場で恋の告白をおこない、ヒアローの心をとらえることに成功する。あるいは、ベネディックとビアトリスは、会えば互いに辛辣な皮肉を言い合う間柄で、どちらも恋愛や結婚には興味がないと公言しているのに、まわりの連中が二人を結びつけようと画策し、それぞれに相手から好かれていると思い込ませるような噂を流すことで二人の気持ちを動かし、実際に結びつけてしまう。もう一つ、クローディオとヒアローの関係を破綻させる陰謀を企てたアントーニオが、ヒアローの心を疑わせるようなデマをクローディオに信じ込ませ、仲を引き裂くということも起こる。いずれも、相手の心を動かしているのは、「心の持ち主」当人ではなく「言葉の使い手」の発する言葉だ。
言葉には、実際の心情よりも大きなものを人に伝えたり、もともと存在しなかった心情をさえ人に伝えたりする力がある。そんな言葉の力の強さや恐ろしさ、あるいはそれに翻弄される人間の心の滑稽さや愛らしさを照らし出したのが、この劇ではないだろうか。
女性役も含めて男優のみで演じるオールメールキャストの舞台。長谷川博己演じるクローディオには、線の細い美貌の青年らしい華を感じさせるものがあった。チョイ役の夜警を演じる井手らっきょも、とぼけたいい味を滲み出していた。
演出・蜷川幸雄。キャストは、ベネディック役・小出恵介、ビアトリス役・高橋一生、ヒアロー役・月川悠貴、ドン・ペドロ役・吉田鋼太郎、ヒアローの父レオナート役・瑳川哲朗、アントーニオ役・手塚秀彰など。さいたま芸術劇場にて。

北野武監督『アキレスと亀』は、人生のすべてを芸術上の成功という一点に張った、ある男の賭けの映画だ。最後まで見て初めて真価がわかる映画だという点で、監督にとってもこれは危うい賭けの一作だったのではないか、と僕は感じた。
映画は、少年期に絵をかくことに目覚めた男(真知寿)が、画家の卵のまま世に認められることなく青年期を経て壮年期を生きていくさまを追っている。この男の人生の基調をなすのは、真摯だが決して深みを帯びることのない、哀切な表層感といったものだ。誤解のないようにつけ加えておくと、深みを描き出すことに失敗しているということではなく、深みに至りえない人生というものの悲哀を描き出すことに見事に成功している、ということだ。
裕福な暮らしから一転して一家の没落に直面する少年期の展開は、不幸な生い立ちの定型をわざとわかりやすくなぞって見せるかのようだ(にもかかわらず、というべきか、少年役の役者は気品があって美しく、静かに存在感を示していた)。
青年期に入ると、男は、芸術家気分に浮かれた美術学校の仲間たちの乱痴気騒ぎのなかにぼんやりと突っ立つ一方で、画商のいい加減なアドバイスに従って画風を次々に変えていく。周囲の状況に流されるままのようにも見える男だが、絵をかきつづけることへの思いだけは一途で途切れることがない。
結婚し、壮年期になっても男は相変わらず気まぐれな画商の言いなりになり、妻の協力をあおいで過激な実験アートの真似事のようなことをして警察沙汰になったりしている。妻には愛想を尽かされて去られ、男は死を決意する。芸術に殉じようとするかのように、藁を積んだ納屋に火をつけ、そのなかで絵をかきながら燃え尽きようとするが、救急車で運び出され、包帯でぐるぐる巻きにされて退院させられてしまう。悲劇の芸術家のような死にかたさえ、この男には許されていない。
包帯ぐるぐる巻きのまま、男はバザーの片隅に座り、錆びて半分腐蝕したコーラの空き缶を置いて、二十万円の値札を掲げている。これは、芸術に翻弄される人生を歩んだ男の、ささやかな抵抗の意思表示だろう。芸術の値打ちというものを、誰が正しく決めることができるのか。この腐りかけのコーラの空き缶だって、二十万円で売る人がいて、もし買う人がいれば、それだけの値打ちがあるということになるんだろう、と。
そこへ、「この空き缶、買うわ」と声をかける女が現れる。かつて男のもとを去っていた、妻だ。「さ、帰りましょ」と促され、男は妻と二人で歩いていく。ここまで芸術に賭けてきた紙屑同然の人生すべてと引き換えに、男が得たのは、ただ一人の女の愛だった。妻の出現で、この男の人生が、この映画が、丸ごと救済される――。そんな感触をもたらす締めくくりの一場面が、素晴らしかった。

宮崎駿監督が激怒している姿を僕が見たのは、北京オリンピックが始まる数日前のことだった。
その日、届いたばかりの液晶デジタルテレビを設置して、映り具合を確かめていたら、たまたま『崖の上のポニョ』制作中の宮崎監督を追ったドキュメンタリー番組がやっていた。そこで宮崎監督が怒っている様子を横長の高画質でじっくりと見つめることになったのだ。
あるアニメーターが描いて持ってきた下絵にカモメが飛んでいたのだが、そのカモメの描きかたに宮崎監督は不満があるようだった。どういう言葉づかいで怒りを表していたか、つぶさには思い出せないが、僕なりに再現してみると、こういうことだった。「このカモメは、なんとなくそれらしく見えるだけで、ちっとも正確じゃない。だいたいこんなところだろう、じゃ駄目なんだ。いい加減にやっているんじゃないのか」と。また、「実物を見られなくとも、せめて本で得た知識でもいいから、正確に描こうというつもりでやってくれ」とたしなめてもいた。
正確、という言葉を宮崎監督が使っていたかどうかは定かでない。リアルという言葉か、もっと別の言葉であったかもしれない。このように、そもそも僕の記憶が不正確であるということも問題なのだが、それはさておき、宮崎監督が言っていた、正確に表現するということに関する戒めは、心に重く響くところがあった。
宮崎監督が求めていた正確さとは、写実的であるとか、写真のようにそっくりであるといったことでは、もちろんない。『崖の上のポニョ』の絵は、写真のような精密さからはほど遠い、大らかでシンプルな画風だ。
対象を写真のように描こうとすれば一万本の線が必要になるところを、十本の線だけで描く、といったことが必要とされていたのに違いない。ここで肝心なのは、その十本の線をいかに見つけ出すか、ということではないか。それは対象の特徴を表すために必要な線であり、現実そっくりであるより、適切なデフォルメがなされるべきものだろう。「デフォルメ」と「だいたいこんなところ」というのは違う。まず最初に対象の特徴を正確に掴むところから始めたのか、ということを宮崎監督は問いたかったのだろう。
これはアニメにばかり当てはまることではなく、創作的な表現に通底する問題だと思われる。たとえば文学でも、一万語を費やさずに十語で情景を描写するとして、その十語をいかに見つけ出すか、そのまえに対象の特徴を捉えることができているか、だいたいこんなところだろうで済ませていないか、といったことは問われなければならない。そんなことを僕は感じ、表現するということについて思いを新たにしたのだった。
前置きが長くなったが、先日、『崖の下のポニョ』を観た。あのカモメのシーンがどこで出てきたのか、とくに注意していなかったのでうっかり見過ごしてしまったが、描き出された世界は生き生きとして、魅力に満ちた作品に仕上がっていた。純愛とは、五歳の子供にのみ可能なものなのかもしれない。五歳児・宗介の言動は素朴だが妙にリアルに感じられた。ポニョという金魚のような女の子は生気に溢れていて、はちみつをスプーンで舐めて目が三色に輝くところとか、最後、人間になるために自分から宗介にキスする積極性など、素敵だった。

僕が最後に演劇の舞台に立ったのは小学校六年生のときである。
学芸会の演目が『走れメロス』に決まり、三つあったクラスから一人ずつ主役候補が選ばれた。体育館でオーディションめいたことが行なわれ、教師たちによる判定の結果、三人のうち二人が主役に決まり、前半のメロス役と後半のメロス役に分けられた。
もう一人はセリヌンティウス役でもディオニス役でもなく、「コール隊長」というものに任ぜられ、舞台の下に設置された段に並んだ合唱隊(コロス)のようなもののリーダー格として、「メロス、メロス、真の勇者メロスよ。いまここで動けなくなってどうするのだ」などと声援を送る役目を受け持つことになった。つまりはそれが僕であり、だから「舞台に立った」というのは正確ではなく、「舞台の下に設置された段に並んだ」というのが実態である。
オーディションで、僕の声がひときわ大きかったことが「コール隊長」に任命された理由らしい。主役をやりたくて大きな声を披露したつもりが裏目に出て、違う適性を見いだされてしまったわけである。いまではすっかり照れ性で声の小さな大人になってしまったが……。
前置きが長くなったが、渋谷のシアターコクーンで、松尾スズキ作・演出の芝居『女教師は二度抱かれた』を観た。その感想を書き留めておこうかと思ってパンフレットの配役表を眺めていたら、「天久六郎=市川染五郎」「山岸諒子=大竹しのぶ」(この両者は主役)などと並んでいるなかで、下のほうに「その他=赤池忠訓」とあるのを見つけ、役名が「その他」とはどんな役だよ、その他大勢ならともかく一人だけその他って……、と微笑んでしまった。たぶん、椅子かなんかを持って舞台上を横切っただけの人物ではないかと思うが定かではない。「その他」という活字を見ているうちに、冒頭に書いたような「コール隊長」の思い出がつい脳裏に甦ってきてしまったのである。
この芝居では、俳優養成学校の生徒役が「俺なんて、もらった役名が『雰囲気』だぜ。火事の炎の雰囲気を演じる役」などとぼやく場面があったりもして、「その他」的なわびしさが随所にちらついていた。
ヒロインである女教師(じょきょうし)の山岸諒子は、女優になる夢に挫折して零落した女であり、主役になれなかった役という主役、という妙なことになっている。山岸役の大竹しのぶは、不器用さのなかに色気と狂気を隠し持った女、という役どころがぴたりとはまり、熟達した女優の演技で女優になりそこねた女の存在感を示していた、というのも妙なことである。
全編通してギャグ満載で笑いに溢れた舞台だったが、主役の人生(新進劇作家・天久六郎や、歌舞伎役者・滝川栗乃介など)、端役の人生(雰囲気など)、舞台から転落した人生(女教師・山岸諒子など)と、それぞれの哀感が伏流していて味わい深くもあった。

『わが魂は輝く水なり』を観劇。源氏方の木曽義仲軍と平家方の斎藤実盛らの軍勢が争い、実盛が最期を遂げることになる北陸での戦いが、この劇の素材となっている。
平安末期に繰り広げられた東国の源氏、西国の平家の二大陣営の争乱は、一九八〇年にこの脚本を書いた劇作家・清水邦夫にとって、東側諸国と西側諸国の二大陣営が睨み合っていた二十世紀の世界の記憶とも呼応するものとして映っていたことだろう。ユートピアめいた木曽の森に対する実盛の憧れと嫉妬、理想社会を夢見て森へと走った実盛の息子たち、彼ら五郎と六郎が見た森の世界の狂気じみた現実。これは、革命の理想が若者たちを突き動かし、その帰結としての現実が若者たちに幻滅と挫折をもたらすに至る、かつての叛逆の時代への挽歌であるとも受け取れる。だが、舞台となる年代を、浅間山荘事件の一九七二年から篠原の戦いの一一八三年へと大胆に移したことで、時代の制約を超えた普遍性を獲得している。
若者たちが生き生きと駆け回っていた森の世界は、誰もが過ごした少年時代の無垢なる世界の記憶のようにも感じられる。しかし、そんな世界は遠い追想や憧憬のなかにあるだけで、誰もそんな少年時代を実際には過ごさなかったのかもしれない。
実盛は、錯誤と悟った理想にあえて殉じるべく、みずからの老いた容貌に若者の化粧を施し、討ち死に必至の戦いのなかに進んで身をさらけ出す。五郎の亡霊が、現実に取り殺されたのちに理想の精髄として純化されたかのように、無力に、美しく、父実盛のかたわらに最期のときまでつき従っているさまはいじらしい。
実盛役の野村萬斎や五郎役の尾上菊之助は、伝統芸能の土台もあってか、激情で押してくるよりも抑制のなかに凛々しさや気品のあるたたずまいで好演していた。巴役の秋山菜津子の威厳と狂気も、真に迫るものがあった。五郎のまとう装束に、男性的なものと女性的なものとを取り合わせたところも、人物像にふさわしいものだった。
演出・蜷川幸雄。渋谷のシアターコクーンにて。

新国立劇場にてオペラ『軍人たち』を観た。いや、オペラだから聴いたというべきか。それに、字幕もかなり読んだ。つまり、観たり聴いたり読んだり忙しかったのだが、とても楽しくうれしい忙しさだった。
B.A.ツィンマーマン作曲、若杉弘指揮、ウィリー・デッカー演出。十八世紀ドイツの劇作家J.M.R.レンツの戯曲を原作とするオペラで、この劇作家レンツこそ、僕の大学院生時代の研究対象だった。原作の戯曲『軍人たち』を、私的に翻訳したこともある。そんなこともあって、今回の公演にとりわけ興味を惹かれたのだった。
レンツは生前不遇であり、死後もマイナーな作家でありつづけている。作品も、完成度の高さよりは、ひずんだ世界像のまがまがしさやいかがわしさに特徴がある。そんな風変わりなものがオペラとなって、こうして日本で上演されるというのは大変めでたく、ありがたいことだ。
レンツの劇世界では、個人は社会や組織の網の目に固く組み込まれ、意志の声を上げるもかき消されて、徹底的に受動的に、網の動きに翻弄される。肉体に宿る混沌たる欲望の活力ですら、網の目から個人を解き放つには無力であり、ただ死をもってしか網から抜け出ることはできない。このような、ある種絶望的な世界観が根底にある。今回の舞台では、ときに水平となり垂直となり、またときに斜めになって登場人物を弄ぶかのような床や壁の動きが、社会や組織の無機的にして強圧的な力を示唆しているように感じられた。モノトーンの舞台のなかに、鮮烈な赤い衣装の軍人たちが、抑圧されいびつにされた欲望の大群のようにうごめているさまは、不気味で哀切だった。
無調音楽の混沌として切迫した響きも、劇世界と不思議なほどによく噛み合っていた。人の世の喧騒と不安と官能を粉々に砕いて音符として再構成したような、猥雑かつ壮大な音楽世界が広がっていた。
そんなこんなで舞台を堪能して帰路に就こうとしたら、大学・院時代の先輩夫妻にばったり出くわした。「ツィンマーマンのオペラというよりレンツの劇のほうに興味があって見に来たという観客は、十人くらいだろう」と、先輩(夫のほう)にからかわれる。飲み屋に場所を移してしばし歓談ののち、帰宅。

渋谷のライズXで、『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』(ジェシカ・ユー監督)を観た。生前まったくの無名に終わった風変わりな人物の生涯を追ったドキュメンタリー映画。
ヘンリー・ダーガーは、掃除や皿洗いなどを生業とし、引きこもりがちで周囲の住人からはただ変人と見られながら、半世紀以上にわたって誰にも見せずに挿し絵の入った物語を書き続けたという。その物語は『非現実の王国で』といい、キリスト教徒の国と悪の国との果てしない戦いのなかで「子供奴隷」出身の七人の少女たちが活躍する話であった。映画から窺い知られるかぎりでは、子供が夜ごとに飽かず思い浮かべる夢想世界のように、似た場面が何度も繰り返される単調なもので、他者に開示することはまったく想定されていない、もっぱら本人のための物語だったようだ。
彼はまた、この物語の挿し絵も含め、膨大な絵を遺している。新聞や雑誌などの切り抜きで少女の写真やイラストを集め、それをトレースしたり模倣したりして絵の世界に取り込んでいったようだ。二次元的ともいえる立体感のない画風で、少女たちの顔は可憐だが抜け殻めいて表情に乏しく、彼女らの幼い肢体には、男子固有であるはずの突起が生えていたりする。子供たちと大人たちの戦乱の様相が執拗にえがかれていて、なかには子供たちが首を絞められたり内臓をえぐり出されたりしている場面もある。グロテスクにして少女趣味的、ポップにして宗教的な、独特の絵画世界が広がっている。
死後数十年経っており、数枚の写真しか残っていないという生前無名の芸術家の一生を、この映画では再現映像を使わずに撮り上げている。画面はおおむね、彼の描いた絵の世界と、彼の晩年の隣人たちが証言をしている様子と、時代を映す記録映像とから成る。彼の実人生と、彼の作り出した世界とが渾然と混ざり合いながら映画は進んでいくが、まさに彼の作り出した世界こそが彼の実人生の大きな部分だったのだから、しかるべくして採られた手法といえる。
ヘンリー・ダーガーは、両親、とくに母を早くに亡くし、諸々の施設を転々とさせられるなかで、強制労働にも近い辛酸を舐めて育ったという。のちに彼が尽きることなくえがき出していった物語や絵画の世界には、子供時代への回顧的感情に根ざしたところなどなかったに違いない。彼は現実には一度も踏みしめることのなかった子供の王国に、想像の世界で初めて入国を許され、獰悪な大人たちの猛威に常にさらされながら、その壊れやすい王国を守るために、孤独な防戦を続けていたのだろう。

芸術家を被写体にしたドキュメンタリー映画『≒草間彌生 わたし大好き』を観た。
飾り気のない映画のつくりで、「素材」のよさが際立っていた。土のついた取れたてのニンジンを丸かじりしてみたら甘かった、といった感触。おどろおどろしくもある外見とは裏腹に、淡々として、かわいらしく、気配りのある彼女の人となりがにじみ出ていて好ましかった。
インタビュアーでもある松本貴子監督の問いかけがどこか素人くさく、ときに不用意で、それがかえってくつろいだ雰囲気やユーモラスな味わいを醸し出していた。「晩年にすごい作品が描けたなと思いますか」(引用は記憶頼りで若干不正確)と尋ねたときには、「晩年」ってそりゃ失礼だろう! と思いつつ観ていたら、「わたし、晩年なの?」と草間が不思議そうに訊き返し、「そうね、あと五年くらいしたら晩年ね」と穏やかに自答していた。
草間は絵を描き、えがき出された世界をまえに「すてき……」とつぶやく。映画のタイトルにもなっている「わたし大好き」ぶりを彼女は常に隠そうとしないのだが、どこか自己を愛することがそのまま世界を愛することに通じているような風通しのよさがある。彼女の絵には無数の水玉や目玉が描かれ、絵の世界を見る者をじっと見つめ返してくる。
渋谷のライズXにて。

見終わってもりもりと力が湧いてくるような舞台だった。老人の冒険と成長の劇。これが少年や青年だったら、物語のなかで冒険をして成長するというのは常套だけれども、老人にしてなお冒険と成長があるというのは稀なことではないだろうか。蜷川幸雄はシェイクスピアの傑作『リア王』をそのような劇として演出して見せてくれた。
老王として身にまとっていた富も名声も権力もあらかた引きはがされて、ただむき出しの人間そのものとして荒野をさまようリア。とさか頭の「阿呆」や半裸体の「気狂い乞食」らに取り囲まれて、リア自身がそれらの者と対等になっていく。彼らが嵐の晩の納屋で正気と狂気のあいだを縫って交わすやり取りの場面は、悲惨ではあっても陰惨ではなく、妙に生き生きとした精彩に富む。リアは八十を過ぎて遍歴の旅路に投げ込まれ、人間について学び、視野を大きく広げていく。だから、彼が息絶えたことも、非業の死というよりは、なすべきことをなし遂げて、去るべきときに世を去った、充実した生の終焉だったのだと感じられた。
老いてもこれだけの冒険と成長の日々がありうるのなら、老人になるのもまんざらではない。ましてリアに比べて相当若輩である自分などが、虚無や倦怠にかまけてしおれている場合ではないのではないか。そんな励ましを受ける、不思議な悲劇の舞台だった。
リア役の平幹二朗が老人の頑迷さと純真さを、グロスター伯役の吉田鋼太郎が壮年の愚直さと力強さを、エドガー役の高橋洋が青年の繊細さと勇敢さを好演していた。エドマンド役で悪の魅力を演じきった池内博之の精悍さも、闇のなかでよく映えていた。
さいたま芸術劇場にて。

渋谷・シネマライズで上映中の映画『ペルセポリス』を観た。イラン人女性の自伝的漫画を原作としたアニメーション作品で、原作者マルジャン・サトラピが他の男性監督(ヴァンサン・パロノー)と共同で脚本・監督も務めている。
イランで生まれ育った少女マルジが、内乱・戦争の時代をくぐり抜け、ヨーロッパへの留学を体験し、大人になっていくという過程を、この映画は追う。現在に近い一部の場面でカラーが用いられているほかは、すべてモノクロで画面が構成されている。
イラン革命前後の動乱のなかでマルジの身近な人々を含めて多数が投獄・処刑の憂き目に遭い、イラン・イラク戦争の勃発により街が空襲にさらされ、また、宗教警察が目を光らせるなかで自由な文化の享受も抑圧される。このような、まさにモノトーンの色調にふさわしい時代背景が描かれているにもかかわらず、不思議なことに、やわらかくてほの明るい情感が全編を貫いていた。それはまず、自由で進取的な家庭に育ったマルジの持つ、ユーモアやしたたかさ、茶目っ気によるところが大きい。単に主人公がユーモラスだというより、作品の作り方そのものがユーモラスなセンスに裏打ちされているのだと言ってもいい。悲しい出来事はいくつも起こるが、さっと場面を切り替える。たっぷり長回しにして、観客にいっしょになって悲しみにひたってもらおう、などと欲をかくことを作り手が恥じているかのようである。
マルジが祖母と一緒に映画館で『ゴジラ』を観る場面がある。建物が次々になぎ倒される。踏みつぶされる、と思って観ていたら人が踏みつぶされる。飲み込まれる、と思ったら本当に人が飲み込まれる。映画館を出て、「日本人はなんで切腹と怪獣の映画ばかり作るのかしらねえ」と祖母がぼやいたりもする(台詞の引用は記憶に頼っているので細部は不正確。以下同じ)。そんな場面があるかと思うと、街が現実に空襲の被害を受けて、がれきのなかで人が息絶えているのを目撃するという場面もある。これはユーモラスと言うには不謹慎なのでそうは言えないが、深刻なことをあえて深刻でなく見えるように描くところから、かえって出来事の重みが伝わってくる、ということもある。
ウィーンに留学したマルジは、異国人としての疎外感にさいなまれるなか、パンク風の連中と仲間になる。そのうちの一人から、「イランでは本物の戦争が起こっているんだろ?」というようなことを訊かれて、戦乱の様子を答えると、「そりゃ、すげえ」という反応が返ってくる。いままさに祖国で続いている戦争の話が「そりゃ、すげえ」で片づけられるというのは、生真面目にとらえればショッキングなことのはずである。マルジも内心傷ついたかもしれない。だが、つらく重苦しい体験というものが、簡単に他者から受容されるはずもないものだと、作り手は知り抜いていたのに違いない。観客に対しても、「そりゃ、すげえ」という興味本位で気楽にこの映画を観ていてくれていいんですよ、という気配りがあり、それがユーモラスな描写や場面展開となって表れ出ている。それはいわば、人間の相互理解の壁にしたたか打ちのめされたうえでたどり着いた態度であるのかもしれない。
留学先から帰ってきて無気力に陥ったマルジは、精神科医の診断を受けることになる。長椅子に横たわって話をするマルジの言葉に聞き入っている様子の医師は、実はカルテにただ落書きのような絵を書いている。そして話を聞き終えると、「なるほど。あなたは鬱病です」と告げる。ここには、辛辣な笑いの表現がある。相互理解の壁から生まれ落ちたユーモアというのは、こんな場面にも表れていると思う。
最後、マルジはかつてなじめなかったヨーロッパの地へとふたたび旅立つ。パリのオルリー空港で乗ったタクシーの運転手に「どこから来たんです?」と尋ねられ、「イランから」と、マルジはごく当然のことをごくさりげなく答える。むろん、彼女が何か立派な人物になった、という結末ではない。ただ、自分はイランから来た、自分はイラン人だ、ということを言える、そのささやかなことを到達点として示すともなく示して、終幕となる。
マルジのパリ行きと入れ違うようにして、祖母が寿命を迎える。マルジにとっては、たくましく、自由な心と愛嬌を失わず、「公明正大に」生きることを教えてくれた祖母。ブラジャーのなかに、いつでもジャスミンの花をいっぱいに詰め込んでいるというユニークな習慣の持ち主でもあった。黒地に白字のエンディングロールで、下から上に多数の人物名が流れていくのとすれ違いに、幾多のジャスミンの花が、上から下へと尽きることなくゆったりと舞い降りていく。その白い花模様が、この映画を観た体験として心のうちに静かに降り積もっていくようで、僕はずっとその花の動きを追い続けていた。

本日、見世物小屋を見物。
新宿・花園神社では、十一月の酉の日(今年は二回)に酉の市の祭りがあり、きょうがその一回目。鳥居をくぐり、賑々しい屋台の並ぶ参道を歩くと、すぐに見世物小屋の呼び込みの声が聞こえてきた(写真左)。蛇女がいるというので、これは黙って通りすぎるわけにはいかないと足を止める。お代は出るときに払えばいいというから、するするっと幕をくぐってさっそくテントのなかへ(写真中)。
さて、蛇女とはどういうものか。頭が女でしっぽが蛇か、それとも頭が蛇でしっぽが女か。どっちにしても得体がしれない。
実際に現れた蛇女はといえば、赤いべべ着て顔を白く化粧し、爬虫類めいたひんやりとした美しさをたたえた年若い女性。胸元にかけた前かけには薄茶色のしぶきの跡が。手にしているのは首のもげた小ぶりの蛇。それが本物の蛇であることを知らしめるために、司会役のだみ声の女性が手前の観客たちに触らせてから、蛇女の手に戻す。蛇女、この首なし蛇を自分の顔のまえにぶら下げたかと思うと、ジャキッと爽快な音を立てて一口食いちぎった。蛇女は蛇女でも、食べるほうの蛇女。おそらく、この日最初に食いちぎったときには真っ赤な鮮血が飛び散って、それが前かけに薄茶色のしみとなって残っていたのだろう。
それから、老婆がちり紙につけた炎を飲み込んだり、犬がハードル越えをしたり、双頭の仔牛のミイラや、一度に鶏を七羽食べるという大蛇(その場で食べて見せたわけではない)が出てきたりと、素敵な演目が続いた。年若い蛇女は、鼻から入れた鎖を口から出して見せるという驚愕の離れ業をも披露してくれた。
この蛇女嬢、出番でないときには舞台のしたに立っていて、その様子がときおり僕の視界に入った。陶磁器のように無機的にすました表情を保っていたかと思うと、ふと顔の内側から人間らしい笑みが押し出されかけ、それを飲み込むようにまた無機的な表情に戻る、その移ろいがまた趣深かった。当人は終始無言だったが、司会役の女性のだみ声が言うところによれば、二年まえに初代蛇女の老婆の技芸に惹かれて入門し、二代目蛇女となって見世物小屋を廃業の瀬戸際から救ってくれたものらしい。年齢はいまだ二十一歳。これから数十年かけて芸と妖艶さにますます磨きをかけていってくれたら素晴らしい。
お代を払ってテントをあとに(写真右)。「ここに日本人のふるさとがある」という惹句も伊達ではない。ちなみに今年二回目の酉の市は、今月二十三日。お時間と好奇心のおありのかたは、お立ち寄りあれ。
* * *
【追記】
当記事の筆者はその後、小説家になりました。どこかしら見世物小屋的なところのある小説が多い気がしています。よろしければ、こちらも覗いてみてください。

脳味噌が黒い雨雲になったかのように重苦しい。さいたま芸術劇場からの帰り道、電車に乗ってからもずっとこの感じが続いた。『オセロー』を観て、ずっしりと気の滅入る、やりきれない感慨を心に詰め込まれて持ち帰ってしまった。
筋や人物関係を書き出そうとしてみたが、暗鬱なキーワードばかりが並ぶことになり、気が塞いできたので取りやめた。
なぜオセローは、一番に信ずべき、誠実かつ清純な新妻デズデモーナを信じることができず、冷酷無比な策謀家イアゴーを信じてしまうのか。わけてもオセローとデズデモーナのあいだのディスコミュニケーション、意思疎通の断絶が痛々しく、二人のあいだを隔てている壁は何か……と思いは巡っていく。人種の違いが周囲からの孤立を生み、愛されることへの自信をオセローに持たせずにいるのか。しかし、人種の問題のみに集約されるものでもないだろう。最終場面のカタルシスのあとにも混沌と渦を巻いて残った重だるい感銘が、終幕から数時間を経てなお続いている。
シェイクスピア原作、蜷川幸雄演出。出演は、オセロー役・吉田鋼太郎、デズデモーナ役・蒼井優、イアゴー役・高橋洋、ほか。
(記事のタイトル、迷ったものの、とりあえず文中から一番きれいな言葉を抜き出しておくことに……。)

さいたま芸術劇場にて、『エレンディラ』観劇。
因習につながれ、祖母の監督のもと、娼婦の生活を強いられるエレンディラ。彼女と出会い、恋に落ちるウリセス。彼は祖母を害してエレンディラを解き放とうとするが……。現実と幻想が継ぎ目なく混交した世界、幻想的な現実世界が続いていくが、最後、何が現実で何が幻想であったのかが明らかにされて以降の展開は圧巻。ウリセスの存在自体がエレンディラの描き出した幻想であり、彼女が愛に渇え、自由を望んだがゆえに形象化された者であった……と、僕は受け取った。生きがたきを生き延びるために幻想を産み出す者の切実な欲求が、そして彼女の置かれてきた苛烈な現実が、ウリセスの存在から逆照射されるように伝わってきて心打たれた。
祖母役・瑳川哲朗の図太い存在感、ウリセス役・中川晃教の清澄な声、エレンディラ役・美波の毅然とした少女ぶりに惹かれた。
ガルシア=マルケス原作、坂手洋二脚本、蜷川幸雄演出。

近ごろ、ボケが始まっている。季節的なもので、夏の暑さが去るとともに収まるものであればありがたい。
直近のボケは、同じ演出家による同じ演目を、過去に観ていることを忘れてもう一度観に行ったことだ。幕が開き、二頭の馬(の役の人間たち)が出てきたところで、似た場面を見たことがあるなと感じ、登場人物の台詞を聞いているうちに、その感触はみるみる確信に変わっていった。蜷川幸雄演出、『お気に召すまま』。三年前の夏、さいたま芸術劇場で観ている。今回は、シアターコクーンにて。原作もかつて読んでいるし、シェイクスピアの喜劇といってもいろいろあるので、記憶がブレンドされてまだら模様になってしまっていたらしい。アーデンの森の不思議な魔力なのかもしれない。追放者の自由と恋の予感とに満ちたあの森はじつに楽しく、何度でもふらふらと呼び込まれてしまうようだ。
ヒロインのロザリンド。この男装の若い女性を男性俳優が演ずるというねじれ具合がおもしろい。男性のふりをしながら女性らしい素性をちらちら覗かせてしまう役柄を、成宮寛貴が魅力的に演じていた。森の首領(前公爵)役の吉田鋼太郎も、懐深い人柄を滲み出す好演。
この芝居の中で、アホウという台詞が何度出てきたかは数えきれない。阿呆(道化)的役どころの人物が、少なく見ても三人ほど出てくる気前のよさ。典型的な道化役はまだら模様の服を着るものだが、観客席にはまだらボケの男が、少なく見ても一人。アーデンの森の妖しい魔力で、またしばらく僕のボケは続いていくのかもしれない。

北野武監督の『監督・ばんざい!』を観た。次の映画を撮ろうと悩む監督の試行錯誤の過程を、撮りかけて失敗に終わった作品の連鎖によって描き出した作品。撮れないのではなく、撮れば撮れるしそこそこ成功するだろうという結果が見えているものをわざわざ撮ってもしょうがない、という倦怠と風刺、型を壊して何が産まれるかという野心と探求心をギャグでくるんで提示している。
一つ一つの作中作が失敗に終わるたびに挿入される、北野武に似せたハリボテ人形の自殺のイメージ。ギャグに見せているが背後には創り手の絶望が隠れている。しかし、ぬけぬけと縄を抜けて性懲りもなく次の試みへと進んでいく。「この人は都合が悪くなるとすぐ人形になる」という趣旨の登場人物の発言があるが、人形になるというのは生き延びるためのすべとして興味深い。
終映近く、倒れたブリキのロボットから北野武演じる吉祥寺太が生まれ直すかのような場面がある。それまで、金正日を模したかのようだった吉祥寺太に、子供のようなあどけない表情が生じる。かと思えば、ほどなく小惑星が落ちてきて各作中作の登場人物もろとも皆吹き飛んで終わる。産まれ直しと自己否定の欲求のせめぎ合いの結果、どうなるのか。壊れた跡から何かが産まれてきそうな期待を抱きつつ、映画館をあとにした。

『ロストロポーヴィチ 人生の祭典』、アレクサンドル・ソクーロフ監督。渋谷のイメージフォーラムにて上映のこの映画、友人が字幕翻訳にたずさわったというのを聞いて、観に行った。ソクーロフ監督の映画は、劇的な展開を排し、一見淡々と繰り出される詩情ある映像のなかから、ある人生の軌跡をそこはかとなく浮かび上がらせる作風。近年何作か見逃していたが、友人からの知らせを契機に久しぶりに観た。
先日亡くなったチェリスト、ロストロポーヴィチと、妻である元ソプラノ歌手、ヴィシネフスカヤを撮ったドキュメンタリー映画。夫妻の盛大な金婚式の祝宴の様子を土台に、本人と妻それぞれへのインタビューや、過去の演奏および出演作品、近年の活動の模様などを挿入しながら映画は進行していく。映像に見るロストロポーヴィチは天真爛漫、芸術の光に包まれた者の明るさがあるのに対し、一方のヴィシネフスカヤは重い情念の混沌を内に秘めているようで、対照をなしている。
映画の最初、深いしわの刻まれた気難しげなヴィシネフスカヤの顔が注意を惹く。ソクーロフ自身がインタビュアーとなって切り込んでいき、また、過去や近年の映像が積み重ねられていくことで、彼女のしわに折りたたまれた屈託が次第に見えるようになってくる。金婚式の席上、彼女が見せた満面の笑みで映画は締めくくられる。ロストロポーヴィチの魅力もさることながら、ヴィシネフスカヤのしわが開かれていく過程、彼女の人間性が開示されていく過程をとらえた映画として、静かに迫ってくるもののある作品だった。

新宿にて時間が空いた折に、映画『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』観た。
冒頭からしばらくは、ややぎこちない場面が続き、ナレーションとして挿入される原作の言語表現に映像表現のほうが押されているのでは、との感触をいだいた。ところが主人公の中川君の中学時代あたりから、場面が生彩を帯びてくる。大学時代に役者がオダギリジョーに代わると、上京青年の駄目っぷりに俄然リアリティーが増してきて、滑稽味と哀感の交錯する世界に惹き込まれていた。後半の母親役の樹木希林も達者で、大学卒業できないかもしれないとの電話を息子から受けたときの控えめな狼狽ぶりなど、実におかしかった。
リリー・フランキー原作。松岡錠司監督。

喜劇を要約することほど滑稽なことはないのだけれど、その滑稽なことをあえてすると、恋とはまわり道である、というのがこの劇『恋の骨折り損』の要諦ではなかろうか。
言葉を欲望のとおりにまっすぐ通すことができないから、何かを直接伝える場合に比して何十倍も余分な言葉が生じ、あらぬ方向に逸れていく。
喜劇の結末は(悲劇が主人公の死であるのに対し)主人公の結婚で締めくくられるのが古来の定型とされており、この劇でもそれを少しずらしつつ踏襲しているが、恋のプロセスというものが、すべからく喜劇的な性質を持っているいうことなのか。
シェイクスピア劇の原文には韻文が多いが、欧米語の韻文のリズムを日本語に移すことはほとんど不可能だ。今回の演出ではところどころラップ調の語りを入れることで、言葉のリズム、欲望のリズムを舞台上に呼び覚ましていた。
シェイクスピア作、蜷川幸雄演出、さいたま芸術劇場にて。

渋谷のシアター・コクーンにて『ひばり』上演。ジャン・アヌイ作、蜷川幸雄演出。主役は松たか子演じるジャンヌ・ダルク。彼女の異端審問裁判から火刑に至るまでを題材にした芝居。
ジャンヌが神の啓示を受けてから戦いの先頭に立つまでの経過が劇中劇の形で示されるが、そこでの彼女の、人を動かし、行動に駆り立てる言葉の力がさえわたる。脚本も力強いし、それを生身の肉体に乗せた松の演技もまた鬼気迫っていた。
罪を悔い改める形式を踏むことで一度は得られた、将来のささやかな幸福の可能性を最後に拒否し、自らの生命をも拒否したジャンヌ。この世のそのときどきの掟、この劇でいえば教会の仮構する秩序に従わず、自身の妄念に殉じることを意識的に選び取った彼女は、神懸かりというよりむしろ、自分が個人であることにもっとも誠実であったように思える。熱情とともにきわめて怜悧な正気(狂気ではなく)を兼ね備えた希有な存在として、彼女は舞台上に生き、死んでいった。最後を火刑で悲劇的に締めくくらずに、時系列をずらして王の戴冠の場面を持ってくる脚本の構成も秀逸。
胸が震える、という慣用句があるけれど、文字通り、薄い胸板の筋肉が震えるほど台詞に心をえぐられる場面が何度もある――僕にとってはそんな観劇となった。